見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの、見つけたとき、 それを作品にしたり、思わずなにかの形にして、人に 伝えたくなります。 見つけたとき感じた、しあわせ感覚が、ひとしずくでも 誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

December 12, 2013

マンデラはユニオンマン


1990年のネルソン・マンデラ東京集会に参加して書いたもの、感慨深い

◇ネルソン・マンデラ東京集会

 1990年10月31日、日比谷野外音楽堂に姿を見せたネルソン・マンデラは、歩くこともおぼつかないほど意気消沈していた。
彼は、反アパルトヘイト(人種隔離政策)と亡命先から帰国の途にある活動家や釈放される政治犯への経済援助を求めた海部首相との会談、そして日本政府の誠意のなさに、失望感を隠しきれないでいた。ANC(アフリカ民族会議)は単なる政治団体ではないのに、日本政府は"特定の政治団体への直接援助はできない"と突っぱねたのだ。
 国際問題研究者の北川洋子さんは、1962年に逮捕されて27年間拘留される前のマンデラにエジプトのカイロで会い、南アフリカでの日本企業の搾取ぶり(安い賃金で黒人を使って派手に稼いでいた)を国連で告発した。国連はアパルトヘイトを南アの黒人に対する差別というだけでなく、人種に対する犯罪と規定した。世界各国の南ア制裁が強化されるなかで1986-87年に日本企業は対南ア貿易額が世界第一位となり、88年に国連で非難決議を受けている。北川洋子さんは、アパルトヘイトと闘うことはイデオロギーの問題ではなく、人間としてやらなければならない人としての最低のモラルだと強く訴える。
現在、選挙権のない南アの黒人の望みは一人一票制。そのためには経済制裁を緩めることなく、私たちにできることをやるべきだと強調する。金、プラチナ、ダイアモンド、レアメタル、南アのトウモロコシやアップルタイザーなどの食料、飲み物は買わない。日本企業は南アと貿易するのをやめる。このことで多少生活が苦しくなったとしても、私たちはそれをしなければならないと、他の反アパルトヘイトの決まりきった挨拶を圧倒する。
 新聞に盛んに書き立てられる南アの部族対立と最近の抗争は、実は部族対立などではなくて、白人と右翼の黒人の反動的勢力が軍や一部の警察とつながってマンデラの勢力に襲いかかっているのだと、日本反アパルトヘイト委員会の楠原 彰氏がジャーナリストの姿勢に疑問を投げかける。彼はビザの下りた南アのケープタウンに出かけ、その実態を見ている。
 マンデラは日本政府に申し入れた32億円を得ることは叶わなかったが、アパルトヘイトに対する闘いはこの国の1億以上の人々と共に歩み、その肩にかかっていると、遠回しに国民の自覚を訴えた。
 ANCの財務局長トーマス・ンコビのアフリカンヴァイブレーションを伝えるトーキング、その「アンフォーチュネトリー(残念ながら)」という言葉は、人間としての義務や、地位ある国家としての国際的な義務を理解しようともしない日本という国への警告のように響く。自国の経済さえ大変なインドやインドネシアでさえ、その場で資金援助を約束している。
 南アの子どもたちの教育や、政治犯/亡命者の帰還に備える資金になる"マンデラ自由基金"は、日本労働組合連合や地方自治体、市民グループなどの協力により、第一次集約金が4300万円集まった。私たち国民が一人1000円の買い物をしたときに支払う消費税分に相当する32億円を援助できないでいる政府に代わり、私たち自身が集めようというもの。
マンデラの異例の国会演説は、梶山法相の人種差別発言のカモフラージュなのか、これを許した政府は、国連決議によるものと言って一方では憲法解釈というルール違反までやろうとしたのに、アパルトヘイト政策に対する経済制裁決議はこれを無視して法律化しようとしない。
 マンデラ歓迎日本委員会の呼びかけ人でもある、渡辺貞夫のトランペットで歌う「コシ シケレリ アフリカ」。タンザニア、ザンビア、ジンバブエ、ナミビアに次いで、この人民の闘いを象徴する歌が南アフリカの国歌となるように、南アの伝統と文化と自由への闘いに敬意を表したい。

△TAMA4号1991より


画像のポスターは1990年ミシガン州のフォードのディアボーン工場にネルソン・マンデラを喜び迎えるため、全米自動車労働組合によって作成されたもの。"ネルソン・マンデラはユニオンマン"より

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