見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2023/11/22

占領パレスチナまたはイスラエル

 



ガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』の解説で、日本のアラビア文学者、奴田原 睦明(ぬたはら のぶあき)が、「まるでカナファーニーのもうひとつの作品を見るような気がしてならない」と述べ、一人の無名のパレスチナ人を紹介している

そして、「この一個人の生の中にパレスチナの歴史そのものが生々しく息づいているからに他ならない」と書く

それはこんな感じに続く……


 「私の名はガジ・ダニアル。24歳です。イエス・キリスト生誕の町、ナザレの生まれです。

 いま、私には国というものがありません。2種類の難民証明カードがあるだけです。1つはレバノン領内のパレスチナ難民業務に関するレバノン総務管理局発行のもので、もう1つはUNRWA(国連救済事業機関)が私にくれたものです。

 1番目のカードによると私は整理番号332、身分証明番号2734番とあり、国籍はパレスチナとなっています。

 2番目のカードは私だけのものではなく、私の家族全員のためのものです。そのカードによると私の登録番号は3254/3201で、それにもまた私の国籍はパレスチナとなっています。

 なぜ、私はこんなことをあなた方に話そうとしているのでしょうか?

 それは、私が300万人の同胞と同じ不幸を分け合っているからであり、私たちはこの非常に重大なパレスチナ問題に対する正しい解決の道を探し求めていますが、あなた方にもそれに加わってほしいと願うからです。」


 「私の同胞の話をすると、それは絶え間ない収奪の歴史ということになってしまいます。

 イギリスは第一次世界大戦以後、私の国を支配下に置きました。彼らはパレスチナに委任統治制度をうちたて、私たちが自らの運命を自由に決定する権利を奪いました。

 とかくするうち、ヨーロッパにいたユダヤ人たちの中には、パレスチナは自分たちの土地だと言い出す者がいました。彼らはシオニストと称しました。

 彼らは、ほぼ2000年前に自分たちと同じ宗教を奉じた人たちがパレスチナに住んでいたのだと言い、故に彼らは私の国パレスチナに対して権利があるのだと言いました。」


「私たちは最初、ユダヤ人の移住者を温かく迎えました。ユダヤ人は過去何世紀もの間、私たちと共に平和に暮らしてきたのです。

 これまでパレスチナの地を一度も踏んだこともないのに、私たちの手から私たちの国を奪おうとしている人がいるだなんて、いったいどうして私たちに考えられたでしょうか。

 私が9歳の時、私の家族は愛する祖国を去ることを余儀なくされました。

 私たちは無一文の難民となって、レバノンに行きました。そこで私は少年期を過ごしました。

 イギリスは、パレスチナを委任統治下に置く前に、シオニストと取引きをしました。中東におけるイギリスの権益を保護するというシオニストの約束の見返りとして、イギリスはパレスチナの地にシオニストの民族的郷土を建設する約束をしたのです。

 イギリスはそんな約束をする権利など持っていないし、ヨーロッパに住むシオニストはパレスチナにいかなる権利も持たない、さらに、パレスチナに住み、その主人である私たち当人には何の相談もなく、彼らは勝手に協定を結んだのです。」


 「私たちの物語は絶え間のない収奪の歴史だと私は前に言いました。

 私たちは、新たに波のように押し寄せる移住者たちに抵抗しはじめました。それは、私たちがユダヤ人を憎んだからではなく、彼らが私たちのものを奪おうとしたからです。

 1919年、1921年、1923年、1936年、1939年と次々に国家的規模の蜂起に私たちは立ち上がりました。

 私たちの同胞は独立を擁護することに敗れましたが、はっきりと私たちの祖国への愛と自由への希求を現しました。」


 「1947年までに、ユダヤ人移住者の数は数百から数万人までにも急増しました。

 彼らはついに私たちの国の総人口の三分の一になり、国土のおよそ7%ほどを所有するようになりました。その土地の一部は彼らが購入したものですが、大部分は公用地で、イギリス当局からもらい受けたものでした。

 その次の年にイギリスはパレスチナから撤退することになりました。イギリスは第二次世界大戦によってすっかり弱体化していたのです。あまりに多くの事柄に関与したあげく、イギリスは軍を撤退せざるを得なくなったのです。

 いずれにしろ、その時すでにイギリスはユダヤ人の民族的郷土を建設するという約束を果たしてしまっていたのです。

 シオニストたちの手による、私の同胞のパレスチナ人たちの虐殺が、その後、続いて起こったのです。

 その一カ月後に、シオニストたちはイスラエル国家樹立を宣言しました。それは、とりもなおさず、人間の血による洗礼によって生まれた国です。」


 「ハイファは、昼も夜も近くの丘陵地帯から砲撃を受けていました。砲撃は無差別になされ、辺り一帯には死臭が立ちこめていました。

 私の父は、イギリスがシオニスト勢力と共謀して結んだ取り決めに反対して生じた1936年の市民的不服従の運動に加わりました。それは全国的なストライキとなり、174日に及びました。おそらく、史上類を見ない最も長い国家規模のストライキではないでしょうか。

 私の両親は、子どもたちをみな連れてレバノンに移る決心をしました。」


 「私たちがレバノンに着いたのは、1948年5月12日でした。それは祖国を出た最後の日となってしまいました。

 イスラエルという国の樹立が、パレスチナの地で宣言されたのです。」


 「名前などというものがさほど重要でないことはわかっています。けれど、“パレスチナ”というのは、すばらしい意味を持った美しい名前です。

 パレスチナというのは、異なる民族間の寛容、そこに住む者の繁栄、そして豊かな精神的遺産を意味しているのです。

 それなのに、なぜパレスチナをイスラエルと呼ぶのでしょう?イスラエルという名は、“差別”を意味するのに。その名は人種差別と不正を表しています。私には、それがよくないことなのがわかっています。世界は第二次世界大戦でナチズムとファシズムと戦ったのですから。」


 「レバノンへの道は危険でいっぱいでした。私たちはバスに乗り、ロバを使い、そして歩きました。国境まであと20キロという地点で、私たちは這って進まなければなりませんでした。シオニストの狙撃兵は、私たちをまず国内で射殺しようとし、撃ち漏らした時には国外に出る時に目的を果たそうとします。」


 「普通の子どものそれとは違って、私の少年時代は悲しい思い出でいっぱいです。

 レバノンに着いて2,3カ月もすると一文無しになり、他の2000人の住む処を持たぬパレスチナ人と同じように難民キャンプに移らなければなりませんでした。国連救済事業機関の食糧配給に頼って、一年中、小さな1つのテントの中に11人の一家が住むということは、ほとんどの人間の忍耐を超えるものです。」


 「ゴールド・メイア(イスラエル元首相)は、“パレスチナ人とはいったい誰のことか?”と言っています。

 私たちがパレスチナ人です。ゴールド・メイアは自答します。“そんなものは存在しないのだ”と。

 私たち、300万の人間が存在します。もし今置かれている状態のまま、私たちがあきらめてしまえば、私たちの存在はメイア一味によって常に無きものにされるでしょう。私たちはこれまでの体験から正当な論拠を主張するだけでは十分でないことを悟りました。1人1人がはっきりと道義的勇気を持ち、実際に不正と戦わなければならないことを学びました。

 私は自分が300万の人間のうちの1人であり、私たちを迫害する者たちと戦い、迫害の根を絶つこと以外に私たちの取るべき道がないことを知ったのです。

 パレスチナの抵抗運動とは何なのか、なぜ私がパレスチナ民族解放運動に加わったか、これでおわかりいただけたでしょうか。

 それは、パレスチナ人が祖国に帰還するための戦いであり、パレスチナの相異なる民族同士の間に寛容の原則に基づいた、誰も他から収奪されることのない新しい社会を築くための戦いなのです。」

(PLO東京事務所の資料より)


下記、参考までに
  

◎イギリスの三枚舌外交

イギリスは、戦争を遂行する上でユダヤ資本の援助を必要としてバルフォア宣言を発してユダヤ人のシオニズムによる国家(ホームランド)の建設を約束した。その一方で、アラブ人に対してもフセイン=マクマホン協定を出して大戦後の独立を約束した。

イギリスの委任統治:イギリスのパレスチナ政策は矛盾するものであったため、後にユダヤ人・アラブ人の双方が主権を主張することとなり、このイギリスの「二枚舌外交」が現代に続く「パレスチナ問題」の原因となった。さらにイギリスは、実際にはそのいずれにもただちに独立を認めることはなく、これも大戦中にフランスと密約したサイクス=ピコ協定によって西アジアを分割する意図を持っていた。

第一次世界大戦後のセーヴル条約によって、イギリスとフランスはオスマン帝国領のアラブ地域を分割し、委任統治とすることにした。パレスチナは1922年からイギリスの委任統治が始まり、ユダヤ人は約束に基づいてパレスチナの地に移住してきた。イギリスは1917年のバルフォア宣言でユダヤ人に対する大戦後のパレスチナにおけるの「ホームランド」の建設を約束したが、それは必ずしも国家を意味するものではなく、また移住に際してはパレスチナ人(アラブ居住者)の権利を侵害しないことという条件が付けられていた。

(世界史の窓より)

https://www.y-history.net/appendix/wh0101-055_1.html