見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2023/11/07

国際社会の二重基準

 



#今日のヨーロッパの議会では痛いほどまれな“理性の声”

オランダ議会、欧州首脳会議前の討論での発言です

「イスラエルのせいによる75年の非人間化、強制退去、家屋の窃盗、破壊、強盗、民族浄化、殺害の情況をなおざりにすることは、パレスチナ人の非人間化にオランダを加担させるだけでなく、違法な入植地の正当化にも加担させることになります。そしてこれを何十年も容認するためにヨーロッパやアメリカの同盟国と協力してオランダは片手でイスラエルを法律より上に置きました。悲惨な結果によって、犠牲になるどの人もみな植民地主義の犠牲者です。そしてオランダにも責任があります。」

@SylvanaBIJ1


京都大学名誉教授、早稲田大学大学院文学研究科教授、現代アラブ文学が専門の岡 真理さんがとても考えさせられることを語っています。彼女は京都大学ではアラビア語、現代アラブ文学、比較文明論などを教えています。大学時代にガッサーン・カナファーニーの小説「ハイファに戻って」に出会い、カイロ留学時代にパレスチナを訪れて以来、パレスチナ問題に関心を持ったそうなんです。

さっそく、カナファーニーの『ハイファに戻って』と、岡 真理さんの著書『ガザに地下鉄が走る日』を図書館に予約したところ、すでに、わたしの前に予約者が数名いました!


◇岡 真理さんのJIPSC/日本・イスラエル・パレスチナ学生会議のインタビュー、『思想としてのパレスチナ―ポストコロニアルの視点から』


 イスラエル/パレスチナ(いまイスラエルと呼ばれている地域だってもともとはパレスチナだったという意味でオスロ合意前はスラッシュを使ってきた)で起きていることは、そもそもヨーロッパの植民地主義的侵略が発端にある……

 パレスチナ問題の発端、起源というのは、シオニズムによるヨーロッパユダヤ人、シオニストによる植民地主義的侵略であるという、ここは絶対に動かせないところだと思うんです。

 なぜパレスチナ問題と呼ばれる問題が起きたのかと言えば、ヨーロッパにおける歴史的なユダヤ人差別の問題が根底にある。その結果としてイスラエルがあるわけで…… 

 

 ここまで話してきたように世界に数多ある紛争の一つとして、「イスラエル・パレスチナ紛争」というものがあるんじゃなくて、「パレスチナ問題」という問いがあるんじゃないかと考えたときに、私たちはその「問い」の中にいるんです。問われる存在として。山口淑子さんってご存知ですか。

 李香蘭、と言っても知らないか。日本人女性で、中国生まれで、戦時中に日本の国策映画会社の満洲映画で活躍したスター女優さんです。実は日本人で、でも中国語も堪能だったから、中国名で、その当時は中国の人たちも彼女を中国人だと思って見ていたわけです。

 でも、満州国という日本の中国侵略に加担する映画にいっぱい出ていたということで、中国にとっては売国奴ですよね。戦後、中国で裁判にかけられて、死刑判決が出るんですけど、彼女は中国人じゃない、日本人なんだっていうことを証言してくれる人がいて、死刑を免れて、彼女は日本に帰ってきて、女優さんとして活躍していきます。その後ニュースキャスターになって、自民党から立候補して参議院議員にもなります。

 昔、『3時のあなた』という午後の主婦向けのニュース番組があって、キャスターを務めていたときに、彼女はイスラエルに行ったんですね。そこで彼女は自分自身の経験から分かるわけですよ、イスラエルは満洲なんだということを。

 その当時は日本・パレスチナ友好議員連盟っていうのがあって、彼女はその議員連盟にも入っていました。いみじくも日本の満洲、中国大陸政策によって彼女は翻弄されるわけだけど、その経験を持っている彼女にとって、満洲という人工国家が日本の中国侵略において打ち込まれた楔(くさび)であるように、イスラエルもそうなんだと、パレスチナ人は満洲国家の建国によって、日本人の支配のもとに、非支配階級としておかれた、あるいは土地を奪われた、中国人なんだということがわかる。

 私たちの外部に「イスラエル・パレスチナ紛争」があるのではないんです。そう考えると、なんで日本の私たちがパレスチナ問題に関心を向けるべきなんでしょうかという問いも、そうじゃない、っていうことですね。パレスチナ問題は私たち自身の問題なのだから。

 パレスチナ問題というのは、そういうポストコロニアルの問題にほかならなかった。でもその普遍性が徐々に徐々に掘り崩されていって、今、「イスラエル・パレスチナ紛争」という、世界の紛争のひとつに矮小化され、私たち自身の足元が問われる問題の根本部分、植民地主義の問題が見えなくされています。


https://jips.amebaownd.com/posts/11032775



◇「人権の彼岸」から世界を観る―二重基準に抗して

岡 真理 『世界』2023年3月号に寄稿(下記はその一部です)


ウクライナ難民は、問題発生の当初より不条理を強いられる人間として報じられた。ポーランドに到着した彼らの疲れと不安がにじむ顔をカメラは追う。…… 個人の肉声を伝え、視聴者に彼、彼女らは私たちと同じ人間だと感じさせる報道だった。一方、欧州難民危機では、浜辺に漂着したり駅に群がる難民の姿が報じられたが彼らはあくまで「中東難民」という塊であり、そこに辿り着くまでに彼らひとりひとりが体験した苦難を見る者に喚起する報道ではなかった。ウクライナ難民に比べ、彼らは相対的に非人間化されていたと言える。

パレスチナのガザ地区。面積約360平方キロ(東京都23区の約半分)。地中海に面し、40キロの海岸線をもつ。人口は約230万。その7割が1948年、パレスチナにおけるユダヤ国家建国に伴う民族浄化で故郷を追われ、ガザにやって来た難民とその子孫だ。ガザは1967年、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とともにイスラエルに軍事占領された(安保理決議違反の占領は間もなく60年になる)、2007年からイスラエルによる国際法違反の完全封鎖のもとに置かれている。封鎖は今年、満16年を迎える。200万人以上の人間が16年もガザに閉じ込められているのだ。「世界最大の野外監獄」と呼ばれる所以である。そして封鎖下のガザはこの間、実に4度にわたりイスラエルによる大規模な軍事攻撃に見舞われている。


2008年暮れに最初の攻撃が起きたときは信じられなかった。150万(当時)もの人間が逃げ場もなく閉じ込められたガザの全土が陸海空から22日間にわたり無差別に爆撃、砲撃された。死者は1400人以上。大半は市民だ。日本のテレビニュース等でも報道されはしたが、人間を袋の鼠状態にして無差別に殺戮するという、人間性の底が抜けたような出来事に見合った量でも内容でもなかった。そしてひとたび停戦になると、ガザは報じられなくなった。


2012年11月には82日間の攻撃があり、さらに2014年、ガザは51日間にわたって攻撃された。すさまじい攻撃だった。国連施設も砲撃され、避難していた市民と国連職員54名が殺された。イスラエルは攻撃目標の規模とは不均衡な圧倒的火力の集中砲火で目標地点一帯を焦土にする「ダーヒヤ・ドクトリン」を展開した。イスラエルとの境界付近は何十キロにもわたり、原爆投下直後の広島を彷彿とさせる焼け野原と化した。7年後の2021年の5月にはまたも11日間の攻撃。破壊兵器の性能は日進月歩だ。今まで体験したことのない異次元の攻撃であったと生き延びた者たちは言う。


2014年ガザの51日間戦争における非戦闘員の死者は1462名(うち、子ども551名。若年人口の割合が大きいガザでは常に子どもの死者が突出する)。150万の人口で死者1462名は日本の人口比で言えば約10万人に相当する。日本で言うなら、2カ月足らずで10万人が殺されたということだ。これはジェノサイドではないのか。しかも、大規模軍事作戦が発動されるたびに破壊と殺戮は威力を増して繰り返される。


攻撃目標に不釣り合いな圧倒的火力による攻撃(これは2014年の攻撃のあと「ガザ・ドクトリン」と呼ばれるようになった)とは、国際法が定める敵対行為の均衡原則に反する戦争犯罪である。国連施設に対する攻撃も然りだ。そもそも封鎖それ自体が集団懲罰であり、国際法違反である。イスラエルによる散発的な空爆、超法規的暗殺は日常茶飯事のため報道もされない。ロシアのウクライナ侵略以上の破壊と殺戮が、ガザの日常、定例行事なのだ。


国際法に照らしてロシアのウクラナイ侵攻が非難されるなら、イスラエルも同様に非難されねばならない。そうならないのは、「国際社会」の二重基準のせいである。ロシアのウクライナ侵攻は国際法違反、国連憲章違反として「侵略」と名指され非難されるが、イスラエルのガザに対する攻撃が「侵略」と呼ばれることはない。国際刑事裁判所も直ちにロシアの戦争犯罪の調査に乗り出し、「国際社会」はプーチンを戦争犯罪者として糾弾するが、イスラエルが不均衡な敵対行為によって街を破壊し市民を殺戮しても、戦争犯罪として告発されない。バイデン大統領はロシアの攻撃をジェノサイドと表現したが、イスラエルによるガザ攻撃を「国際社会」がジェノサイドと呼ぶことはない。ロシア軍に対峙するためにウクライナ市民が火炎瓶を手作りするのは正当なレジスタンスとして日本のメディアは応援するかの如く好意的に報じるが、ガザのパレスチナ人が国際法や安保理決議や人権規約に違反しながらイスラエルが継続する占領や封鎖に対して武装闘争をおこなうのはテロと非難される。


だが、パレスチナ人がパレスチナに自分たちの独立国家を持つことは、国際社会が認めたパレスチナ人の正当な権利である。その主権国家をパレスチナ人に持たせまいとして、イスラエルは違法な占領を続け、違法な封鎖を課し、人為的に人道危機を創り出し、ジェノサイド規模の殺戮を繰り返しているのだ――米国の拒否権に守られながら。


公正さ(ジャスティス)の基準とはひとつでなければならない。ある者たちには適用されるそれが、別の者には適用されないなら、それは公正ではなく、不正のためのツールである。パレスチナ人にとって国際法とは自らの普遍的人権を実現するための唯一の武器だが、欧米諸国にとってそれは「敵」を非難するときは振りかざし、自己の利益のためには踏みにじる、ご都合主義の道具に過ぎない。そこで唱えられる「平和の大切さ」や「普遍的人権」など、まったくのおためごかしということになる。企業メディアによるパレスチナやガザの報道も、基本はそのラインでなされている。パレスチナの平和が実現しないのは、「戦争」のせいではなく、「国際社会」のこの二重基準のゆえにほかならない。

もうひとつ、ガザに関する二重基準がある。

2014年7月、ガザに対するイスラエルによる3度目の大規模軍事作戦が始まったとき、封鎖はすでに7年が経過していた。攻撃開始から1週間後、イスラエルが無条件停戦を提案したが、ガザを統治するハマースは封鎖解除を条件としない停戦は受け入れられないとしてこれを拒否した。このときの日本のテレビの報道は倒錯したものだった。ガザ市民を日々、殺戮しているのはイスラエルであるにもかかわらず、封鎖解除という停戦条件に固執するハマースが停戦案を受け入れず、そのためにガザの人々が殺され続けているとハマースを批判したのだ。


それは欧米メディアの論調に倣ったものだったのだろう。1週間後、ガザの識者やジャーナリストら100名以上が「ガザに公正なき停戦はしない」と題した英語の声明を発表した。声明は、一方的停戦案を拒否したハマースはガザの圧倒的多数の住民の感情を代表しているとし、「単に既成事実(すなわち7年間続いている完全封鎖下の生活のことだ)に戻るだけの停戦など受け入れがたいというのは広く公衆に共有されている感情である。そんなことを受け入れろというのは、生きながら死ぬ状態に戻れと言うのに等しい」と訴えた。封鎖とは「生きながらの死」だということだ。


しかし、封鎖は解除されず、さらに9年が過ぎた。16年に及ぶ封鎖でガザの産業基盤は破壊され、経済は壊滅した。失業率は49%、世界でも最高水準だ。人口の半分が貧困線以下の生活に喘ぐ。住民の8割が国際社会の支援に依存し、100万人の難民が国連による食糧配給で命をつなぐ。水道水の95%が汚染されているが、住民たちは健康に悪いと分かっていてもそれを飲むしかない。生きるための水が、肉体を内側から蝕むのだ。


2006年にガザ唯一の発電所が攻撃で破壊され、電力供給は1日4、5時間(最近は改善されて12時間供給されるようになったが、それでも1日の半分は電気がないのだ)。ガザの人々は、日本の私たちと同じように近代的な都市生活をしている。高層住宅に住む者たちも多い。そのガザで電力が1日の半分、あるいは数時間しか供給されないのだ。停電で止まるのはエレベータだけではない。上層階は水も来なくなる。当初は蝋燭で灯りをとっていたが、火事で子どもが亡くなる事件が相次ぎ、バッテリー(蓄電池)が家庭の必需品となった。それが貧しい家計をさらに圧迫する。また、近代医療は電気に依存している。病院は燃料を病院の発電機に回すため、救急の出動を控えることを余儀なくされた。人工透析患者は必要な時間の半分しか透析を受けられない。長期的には明らかに命を縮めている。


下水処理施設は電力不足やイスラエルの攻撃で破壊されたりして、この間、10年にわたり稼働しなかった。200万もの住民の生活排水が汚水処理されないまま、日々、大量に海に放出されていたのだ。その結果、ガザの海は汚染され、海水浴は命の危険を伴うものとなり、ビーチは遊泳禁止になった。世界最大の監獄に閉じ込められた住民たちは、彼らにとって唯一といってよい憩いと癒しの場だった海さえ奪われたのだった。[注3:最近、電力供給が若干改善され、ドイツの援助で下水処理施設が再稼働を始めたことで、ガザの海の汚染も改善され、昨夏はガザのビーチの3分の2で遊泳禁止が解除された。これは海の汚染がイスラエルの領海にも及んだためだ。]


今、住民の多くが精神を病んでいるという。出口の見えないこんな状況に16年間も置かれているのだ。人間であれば当然のことだ。そして2014年頃から、自殺を最大の宗教的禁忌とするイスラーム社会のガザで自殺――とくに若者の自殺――が急増している。いつ終わるとも知れぬこの「生きながらの死」よりも地獄に落ちる方がましだということだ。国際社会に対する絶望の表明である。


封鎖は占領と同様、「構造的暴力」である。直接的暴力である戦争と異なり、一時に大量に人が殺されたり建物が破壊されたりするわけではないのでその暴力性はにわかには分かりづらい。だが実に巧妙に、今すぐ人が大量に死ぬことなく(だから世界の注目を集めることもなく)、しかし封鎖に起因するさまざまな否定的な影響が長期間にわたり持続、蓄積し、それらすべてが複雑に撚り合わさって、直接的暴力に勝るとも劣らぬ致命的な暴力となって社会と人間を内側から破壊する。ソシオサイド(社会の扼殺)である。


メディアが報じるのは、長期に及ぶ大規模な攻撃があったときだけだ。戦争が続いているあいだは報道もするが、停戦になると終わってしまう。あたかも、もはや私たちが問題にすべき何事もないかのように。だが、政治的目的のために意図的に創り出された人道危機のなかで230万の人間たちが自由な生を奪われ、基本的人権を否定され、ただ今日を食いつなぎ、生き延びるだけの存在に還元されて、そして数年に一度、大規模に殺戮される。このようなことが16年間、ガザでは続いているのだ。ガザはまさしく、人権の彼岸にある。


ヨハン・ガルトゥングが構造的暴力という概念を提唱するまで、平和とは戦争という直接的暴力のない状態のことだとされた。だがガルトゥングは、それは消極的平和に過ぎないとし、真の平和とは構造的暴力のない状態だとした。


平和が、人間が安らかに健やかに生きられることだとしたら、たとえ大規模軍事攻撃がなかったとしても、封鎖が続く限りガザの人々は平和を享受しているとは言えない。ガルトゥングはまた、直接的暴力や構造的暴力を正当化したり維持したりする態度や価値観、思想を文化的暴力と名づけた。戦争という直接的暴力のみ注目し、戦争に勝るとも劣らず人間の生を破壊する封鎖という構造的暴力を一顧だにしないマスメディアの報道のありようや、「平和」を戦争との連関においてしか考えない態度も、それによって封鎖の継続に加担しているという意味で文化的暴力である。そして封鎖が継続することで、ガザに閉じ込められた200万もの人間に対する集団殺戮が繰り返し可能になっているのだ。


封鎖下で、これが人間か、人間の生と言えるのか、というような生を生きる(あるいは死ぬ)ことを強いられているガザの人々を関心の埒外に捨て置くことで国際社会は、パレスチナ人には私たちと同じように人間らしく生きる権利はないというメタメッセージを16年にわたり発信し、これを実行し続けている。戦争だけを問題にすることは、結果的に人権をめぐるこの二重基準を実践し、平和を渇望するパレスチナ人の抹殺の推進を幇助することになる。


ロシアの侵略は非難されねばならない。だが、平和の真の敵はプーチンではない。普遍的人権や国際法の「普遍性」を切り崩す、国際社会の二重基準こそ、私たち世界市民が戦わねばならない敵である。


https://www.tup-bulletin.org/?p=4236