見つけた 犬としあわせ

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2024/08/23

若者の「腕と足を折れ」

 


パレスチナ人ジャーナリスト、ビサン・オウダはガザ戦争の報道でエミー賞にノミネートされる。彼女のノミネートを抹殺するための集中的なキャンペーンにもかかわらず、エミー賞は進行中のジェノサイドについて英語で世界に知らせているガザからの重要な代弁者の一人をノミネートするという決定を曲げなかった。ビサンはガザ地区からの最も強力な代弁者の一人で、故郷の顛末を伝えるために命をかけている。

速報:150人以上のハリウッド俳優、脚本家、プロデューサーがビサン・オウダに与えたノミネーションを撤回するようエミー賞に求める書簡に署名していた。ビサンの反応はこうだった:「わたしはとても疲れているから、もうどうでもいい。死ねばいいのにわたしはもう路上では寝ない、家族といっしょにわたしの家で死ぬ」(上の画像はビサン・オウダです)

 

#イスラエル軍は、2024年パリオリンピックから帰国したパレスチナ・フットボール協会の会長ジブリル・ラジューブを拘留した。イスラエル外相はオリンピックとFIFAからイスラエルの権利を停止するキャンペーンを続けるならこれを実行すると言ってラジューブを脅していた。常軌を逸している。

(アルジャジーラの報道参照)

 

元 IDF(イスラエル国防軍)兵士でジェノサイドを探求する歴史家であるわたしは、最近のイスラエル訪問によって深く掻き乱された

ガーディアン紙 2024年8月13日

記事の抜粋:イスラエルは永久に続く暴力によるおどし(すさまじさ)の論理を採用した、全住民を滅ぼすことを認め、そうする行為を完全に正当であると感じさせておく論理だ。それは犠牲者の論理、前に彼らがやったようにわたしたちを殺す前に彼らを殺さなければならない、そして犠牲者の正当観念以上に暴力によるおどしに公的な権限を与えるものはない。1918年にわたしたちに起こったことを顧みてくれ、1942年にドイツ兵が言った、第一次世界大戦でのドイツの壊滅的な敗北をユダヤ人とコミュニストの裏切りにあるとした宣伝者の「卑劣に人の背を刺す」神話を思い起こさせるものだ。他者がわたしたちを助けにきてくれると信じていたホロコーストで起こったことを顧みてくれ、それによってハマスとナチスとのウソの類似性をもとに無差別破壊の許可を与えたと2024年にIDFの軍隊は言っている

 

わたしがイスラエルに渡航した時には、少なくとも2024年5月6日のIDFによるラファ攻撃以降、イスラエルが計画的な戦争犯罪、人道に反する犯罪、計画的なパレスチナ人に対する大量虐殺行為に従事していることはもはや否定できないと確信するようになっていた。それは、いわゆる安全地帯に彼らを再び追いやる、ほとんどがすでにIDFによって幾度も退去させられた最後に残ったガザ住民の集中への攻撃で、どんな人道上の規範にも完全なる無視を示しただけではなかった。それはまた、まさに発端からこの企て全体の究極のゴールがガザ地区全体を居住不可能にすることであり、ガザ住民を死に絶えるかあらゆる選択可能なものを探して領土から逃げ出すことになる程度まで弱体化させることだったことも明白に示した。言い換えれば、10月7日以降イスラエルの指導者らによってとうとうと弁じられるレトリックが今や現実に転換されていた。すなわち、1948年の国連ジェノサイド条約にあるようにイスラエルは殺害することで、深刻な危害または集団をなきものすることを意味する生活状態を強要することでガザのパレスチナ住民を「全部または部分的に破壊する意図を持って」行動しているということだ。

2024年6月19日、わたしはイスラエルのBe’er Shevaにあるベン・グリオン・ネゲブ大学(BGU)で講義する予定だった。わたしの講義はイスラエルに対する世界規模のキャンパス抗議に関するイベントの一環で、ガザ戦争、そしてもっと広くその抗議が口で言う通りの怒りの表現なのかそれとも反ユダヤ主義によって動かされたものなのかという問題を話すつもりだった。だが、成り行きは計画通りとはならなかった。

講堂の入り口に到着すると大勢集まる学生グループが見えた。まもなく、学生たちはイベントに出席するためではなく、講義に異議を申し立てるためにそこにいることが明らかになる。学生たちは前日に送られたWhatsAppメッセージによって呼び付けられたと思われる。メッセージは講義を欠席して行動を呼びかけた、「わたしたちはそれを許さない!いつまで自分たちへの裏切り行為を犯すのか」と。

メッセージは続いてイスラエルを「アパルトヘイト体制」とことばで述べる請願書にわたしが署名したと申し立てる(実際、その請願書はヨルダン川西岸のアパルトヘイト体制に言及していた)。わたしはまた2023年11月ニューヨークタイムズ紙に記事を書いたとして非難された。その記事でわたしは、イスラエル指導者らの声明はジェノサイドの意図を示唆しているが、ジェノサイドを犯すのを止める時間はまだあると述べた。イベントの主催者、著名な地理学者オレン・イフタヘルは同様に非難された。彼の罪には反シオニストの、世界的に尊敬される人権NGOB’Tselemの理事を務めていることが入る。

1時間以上にわたる学生たちの妨害の後、わたしたちは妨害を止めることを条件に学生抗議者に話し合いに加わるよう誘うのがおそらく前に進む最善策ということで同意した。まずまずの数の活動家がやってきて2時間座って話をした。この若い男女のほとんどが予備役から最近戻ってきたばかりであることが判明する。予備役の期間、彼らはガザ地区に配備されていた。

これは友好的でも前向きな意見交換でもなかったが、それは隠れていた事実を見せていた。この学生たちは必ずしもイスラエル全体の学生を代表するものではなかった。彼らは極右組織の活動家だった。だが、多くの点で彼らが言っていることはこの国ではるかに広く浸透している感情を反映していた。

これらの問題を考察するにあたり、わたしは自分の個人的そして職業上の経歴にただ頼るのみである。わたしは4年間イスラエル国防軍(IDF)のために働いた。それには1973年のヨム・キプール戦争と、ヨルダン川西岸、北シナイ、ガザ配属が含まれ、歩兵中隊の指揮官としてわたしの任務を終える。ガザでの配属の間、密集した荒れ果てた地域でなんとか細々と生計を営むパレスチナ難民の貧困と絶望状態をわたしは間近で見た。当時イスラエルによって占領されていたエジプトの町アリーシュの日陰のないしんとした通りをパトロールしていて、閉ざされた窓からわたしたちを観察する恐怖と恨みいっぱいの住民の凝視に心が響いたことを最も鮮明に覚えている。わたしは初めて、他国民を占領するとはどういうことかを理解した。

ユダヤ系イスラエル人は18歳になると兵役が法で命じられる。幾つか例外はあるが、以後も訓練や作戦任務、あるいは戦争のような緊急事態で再びIDFで軍務に就くよう求められることがある。わたしは1976年に召集されたときテルアビブ大学で学ぶ学部学生だった。予備役将校として最初の作戦展開中にわたしは訓練中の事故で重傷を負った。訓練基地の司令官の過失によって引き起こされたこの出来事の状況をIDFは隠蔽した。わたしは最初の学期のほとんどをBe’er Shevaの病院で過ごしたが、勉学に戻り、歴史専攻の特別証書を得て1979年に卒業した。

 1987年後半の最初のパレスチナ人のインティファーダまたは蜂起のとき、わたしはテルアビブ大学で教師をしていた。重装備部隊に石を投げていたパレスチナ人の若者の「腕と足を折れ」との、当時の国防大臣イツハク・ラビンのIDFへの指示にわたしはぞっとした。ナチスドイツ軍の洗脳に関する研究に基づき、わたしは彼の指揮下でIDFが同様の危険な道を辿るのではないかと懸念していると彼に警告する手紙を書いた。 

 10月7日以降の数ヶ月、わたしの人生とキャリアを通じて学んだことが以前にも増して痛いほどよくわかり今日的になってきた。どこに関心を向けても痛恨ごとに欠乏はない。

10月7日のハマスの攻撃はイスラエル社会にはとてつもない衝撃と感じられ、社会はそこからの回復に着手していない。国家から見捨てられたという感覚と数万人のイスラエル国民が今でもガザ地区やレバノン国境沿いの家から退去させられるという継続している不安定さは深刻だ。

政府に反対する人たちを含めるイスラエル国民の広い範囲に2つの感情がこのうえもなく支配的だ。

一つは、怒りと恐怖が組み合わさった感情、どんな犠牲を払ってでも安全を回復したいとの願望と、政治的解決、交渉、和解への完全なる不信である。

二つ目の行き渡る感情、あるいはむしろ感情の欠如は最初の感情の裏返しだ。ガザの住民にどんな共感も感じないことは今日のイスラエル社会の異常なまでに極端な無能力だ。大多数はガザで何が起きているかを知りたがらないように思え、この欲求がTV報道に反映される。最近のイスラエルのTVニュースは通常、常にヒーローとして描かれるガザの戦闘で亡くなった兵士の葬儀に関する報道で始まり、何人のハマス戦闘員が「粛清」されたかの推定が後に続く。

パレスチナの一般市民の死への言及は稀で、普通は敵のプロパガンダの一環としてか、または歓迎されない国際的圧力のためとして紹介される。これほど多くの死を面前にしてこの極度の静寂、無反応は、今では復讐心の形態のように思える。

もちろん、イスラエル国民はその存在の76年のうち57年間、この国を特徴づけてきた残忍な占領にずっと前から慣れ鍛えられるようになった。だが、IDFによって現在ガザで犯されてることのスケールは、彼らの名のもとに行われていることへの大部分のイスラエル人の完全な無関心と同じくらい前例のないものである。1982年、IDFによってことを容易にされる、マロン派キリスト教徒民兵によるベイルート西部の難民キャンプ、サブラとシャティーラでのパレスチナ人虐殺に対しては数十万のイスラエル人が抗議した。今日、この種の反応は考えられない。パレスチナの一般市民の苦しみ、多数の子どもや女性や高齢者の死について言及するたびに人々が目をどんよりさせる状態は強く不安にさせるものだ。

 

https://www.theguardian.com/world/article/2024/aug/13/israel-gaza-historian-omer-bartov