ホンジュラスのピノチェレッティ
□ホンジュラスの空港で激突
テグシガルパ空港でホンジュラス軍が追放されたマヌエル・セラヤ大統領の支持者らを追い散らそうとするとき、少なくとも一人が殺されてきている。
セラヤ氏の飛行機はワシントンから到着したあと、暫定当局が着陸は許可されないと主張するので、首都上空を旋回してきている。
代わりに彼らは飛行機をエルサルバドルへ別ルートで向かわせようとしている。
ちょうど一週間前の彼の追放以来、大統領官邸に戻るとのセラヤ氏の要求を地域全体の指導者らが支持してきている。
彼は機内でのTVインタヴューで挑戦的なメッセージを発してきている。
「私は国民によって選ばれた軍の指揮官です、そして私は着陸して私の同胞と抱き合うのに問題ないように空港を開けよとの命令に従うことを軍隊に求める」と、彼が言ったものとしてAP通信社によって引用された。
「そこに到着してキリスト受難の十字架を掲げられるように、キリストの血で祝福された、私には十分な精神力がある。」
彼の飛行機にはミゲル・デスコト国連総会議長と数人のジャーナリストが同乗している。
アルゼンチン、エクアドル、パラグアイの大統領と米州機構(OAS)のインスルサ事務総長が、セラヤと同時にワシントンを離れ、重大ごとの発生を監視するためエルサルバドルに行く。
ホンジュラスの暫定政権は隣国ニカラグアから国境へ向かう軍隊を非難してきているが、ニカラグアはこれを否定する。
「禁止」
繰り返し石を投げつける人もいる数千人のセラヤ支持者に、暴動鎮圧用装備の軍が催涙ガスを発射した。数千人はなんとか防衛手段の非常線を突破した。
現場のAP通信のカメラマンは、人々がなんとかして防衛手段の非常線を破ろうとしたとき、空港内からの発砲によって男性が頭を撃たれていたと言った。
通信社の写真が群衆のなかのふたつの遺体を示す、どちらも死んでいると言われる。
セラヤ氏がワシントンを発つ何時間か前、ホンジュラスの暫定外務大臣エンリケ・オーテスは、追放された大統領は「なにが来ても」帰国を許可されることはないと言った。
セラヤ氏の解任は国際社会によって非難されてきている。
土曜日、OASがホンジュラスの資格停止を発表。キューバがソ連と同盟関係になった1962年にキューバが資格停止になって以来、米州機構がそのような対策を講じるのは初めてのことである。
セラヤ氏がワシントンを発ったとき、暫定政権はOASとは「誠実に」対話してきたと言った。
ホンジュラス自体はどうも、放逐された指導者の支持者と、彼を一掃した当局を支持する人々とのあいだで分裂しているようだ。
どちらの側もここ数日間抗議を行ってきている、だが、デモはたいてい平和のままである。
富裕な実業家のセラヤ氏は左翼の政治家でベネズエラのウゴ・チャベス大統領の支持者だ。
最高裁と議会の多数派を含める、彼の敵対者は、彼が統治を延ばそうと努めていると非難する。
憲法制定議会を召集することで、現行の大統領任期の一期制限を取り除いていたかもしれなかった手段、国民投票を彼は行いたかった。
(BBC NEWS 05 July 2009)
http://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/2/hi/americas/8135358.stm
□ホンジュラスの首都テグシガルパのトンコンティン国際空港で5日、軍事クーデターで国外追放されたホセ・マヌエル・セラヤ氏の帰国を前に、当局側と抗議デモ参加者が衝突し、軍兵士の発砲で2人が死亡、2人が負傷した。
警察幹部はAFPに対し、「2人が死亡、2人が負傷した。警察側は発砲していない。抗議デモ参加者が滑走路に進入しようとしたため、軍が発砲した」と語った。
現場にいたカタールの衛星放送アルジャジーラのカメラマンによると、死者のうち1人は10代の少年だという。もう1人については、抗議デモ参加者は10代の少女だとしている。
現場にいたAFP記者によると、軍兵士は発砲する直前、滑走路に進入しようとした棒などで武装した抗議デモ参加者を催涙ガスを使って解散させようとしていた。
この日はセラヤ氏の帰国を目前に控え、空港周辺には約3万人が集まっていた。
(AFP 2009年7月6日)
□From:ホンジュラス 民主主義成熟の機に
ホンジュラスを訪れたのは89年の学生時代以来である。当時、周辺のグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアでは内戦が続いていた。ホンジュラスは親米・右翼政権で、米国に支援されたニカラグアの右翼ゲリラ「コントラ」の拠点にもなっていた。
首都テグシガルパの貧困地区は、じめじめした道路に生ごみがあふれ、悪臭が漂っていた。そこから歩いて橋を渡れば、きれいなオフィス街。すさまじい貧富の格差が当時の強い記憶として残っている。居心地が悪くて数日で出国した。
20年ぶりのテグシガルパはずっと発展していた。格差は厳然として存在するのだが、昔のような悪臭には遭遇していない。何より印象が変わったのは、クーデター騒ぎの非常時にもかかわらず、人々がとても親切にしてくれることである。
国外追放されたセラヤ大統領を支持するクーデター抗議集会の場所をおそるおそる聞くと、兵士も警官も気さくに教えてくれた。わざわざ通りまで出て、タクシーを探してくれたおじさん。日本円で50円ほどのかき氷を無理やりおごろうとする青年。おせっかいぶりに苦笑してしまうほどだ。
冷戦下も内戦は起きず、政治的立場を問わず平和志向が強いと言われる国民が、クーデターに巻き込まれたのは不幸なことだ。左傾化したセラヤ氏を追い出した暫定政権は「クーデターではない。合法だ」と主張する。しかし、軍は大統領を連行し、裁判もせず、パジャマ姿のまま国外に追い出した。国際社会が非難するのは当然だ。
驚いたのは米国がすぐにクーデターを非難したことだ。中南米右派の軍事クーデターの歴史には必ずと言っていいほど、米国の影があった。チリの軍事独裁者として左翼活動家を弾圧し、3000人以上の死者・行方不明者を出したピノチェト将軍の73年のクーデターを米国が支援したことは、象徴的な史実である。
最近では、反米姿勢で知られるベネズエラのチャベス大統領追い落としを狙った02年4月のクーデター未遂事件がある。当時のブッシュ米政権は軍の一部が擁立した暫定大統領を早々に承認したのだが、チャベス氏は48時間後に復活し、米国は大恥をかいた。
この苦い教訓もオバマ政権の対応に影響したのかもしれない。オバマ大統領はホンジュラス暫定政権を承認せず、中南米諸国と足並みをそろえているが、過去の歴史を考えれば、隔世の感がある。これが「チェンジ」というものなのか。
今回のケースは親米派であれ、クーデターという手法では米国の支持は得られないという前例になったと言えるだろう。混乱の行方は見えないが、中南米の民主主義成熟の機会になるかもしれない。
ミチェレッティ暫定大統領は悪名高いピノチェト将軍にちなみ、「ピノチェレッティ」と呼ばれている。こんな不名誉な称号を与えられる指導者は、これが最後であってほしい。
(毎日新聞 2009年7月6日 by 庭田学)
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