見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2022/09/04

ハワード・ジンの民衆のアメリカ史

 


ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』は、ふと見上げるとそこに月がある!みたいな感じで、わたしには一つのよりどころとなる存在であることに気づく

年を重ねてから読んでも、きっと世界が前に向かってひろがって見えるはず


◇“戦争はだれでも皆に偏見をいだかせる”:

彼の100歳の誕生日に伝説の歴史家ハワード・ジンを思い出します

デモクラシーナウ! AUGUST 24, 2022


わたしたちは、100年前の今日生まれた伝説の歴史家、作家、教授、劇作家、そして活動家であるハワード・ジンを思い出します。

ジンは、当番組が始まる1996年から2010年に87歳で死去するまでDemocracy Now!の常連のゲストでした。

第二次世界大戦の惨事を爆撃手として立ち会ったあと、ジンは公民権運動の最中にスペルマン・カレッジで生徒たちとピケを張る平和と正義の活動家になり、たとえばベトナム戦争反対の行動に参加しました。彼は後にアメリカのアフガニスタン戦争とイラク戦争反対論をぶちます。「中立は不可能だと思います、世界はすでに避けられない方向に乗り出しているからです。戦争がさらに進んでいます。子どもたちが飢えに苦しんでいます」と2005年のインタビューでジンは語りました。「中立でいるとは… なにが起きていても協力すること、それが起こることを許すことです。」

彼の傑作の著書「民衆のアメリカ史」は、より強力な勢力による抑圧と搾取に抵抗した平凡な人々の視点から、この国の歴史を形を変えて語ります。


エイミー・グッドマン(番組の司会者):今日はハワード・ジンを思い出して過ごします。ジンは100年前、1922年8月24日にブルックリンの労働者階級のユダヤ人移民の両親のもとで生まれました。2010年に87歳で亡くなりましたが、彼の本は世界中で読まれ続けています。

ジンは18歳で造船所の労働者として働き始めます、そのあと空軍に入り、第二次世界大戦では爆撃手として軍務に就きます。戦争の惨状に立ち会ったあと、ハワード・ジンは終生の反体制の人、平和活動家へと進みます。彼は公民権運動や他の社会的正義を求める苦闘で先鋭分子でした。歴史上、黒人女性のための大学であるアトランタのスペルマン・カレッジで教鞭をとります。彼は抗議する学生のために立ち上がったために不服従を理由に解雇されました。スペルマンにいる間、彼は学生非暴力調整委員会SNCCの執行委員会で力を尽くしました。

スペルマンを追い出されたあと、ジンはボストン大学の教授になります。彼は1967年に『ベトナム:撤退の論理』を出版します。無条件、即時撤退を要求する初めての戦争に関する本でした。1年後、彼とダン・ベリガン神父は北ベトナムが解放した最初のアメリカ人捕虜3人を迎え入れるために北ベトナムに行きました。それがマスコミに漏れる前、ダン・エルズバーグがペンタゴン・ペーペーズを隠す場所が必要だったとき、彼はハワードと彼の妻ローズ・ジンのところに行きました。

1980年、ハワード・ジンは傑作の著書、『民衆のアメリカ史』を出版します。その本は100万部以上売れ続けることになり、アメリカの歴史の見方を変えました。

1996年の番組の開始から亡くなるまで彼はデモクラシーナウ!の常連のゲストでした。本日の番組は、彼がわたしたちの消防署スタジオにやってきた2005年に行ったハワード・ジンのインタビューで始めます。


エイミー・グッドマン:ご一緒できて光栄です。

ハワード・ジン:わたしを招いてくれてありがとう。


➡(エイミー・グッドマン)あなたが教えていた場所、スペルマン、あなたは首になりました、そしてボストン大学ではあやうく首になりそうでした。


ハワード・ジン:ああ、わたしのことをトラブルメーカー呼ばわりしようとしているね?


➡スペルマンではなにがあったんですか?


ハワード・ジン:南部で続けている行動にわたしの生徒と一緒にかかわりをもちました、シットイン(座り込み)、デモ、ピケラインです。わたしは生徒を支持していました。そしてこれは非常に保守的な教育機関スペルマン・カレッジの最初の黒人の学長です。これらのことすべてで、わたしが生徒の仲間に加わっていることに彼はうれしくありませんでした。生徒がした多くのことに彼は愉快ではありませんでした。でも、彼はそれについてなにもできませんでした。でも、生徒たちが刑務所から戻り、そのあとキャンパスの規則や生徒たちに対する制限に反抗したとき、そしてわたしが彼らを支持したとき、それは手に余るものとなりました。


➡公民権運動時代の間ですか?


ハワード・ジン:そうです、公民権運動時代の間でした。そのキャンパスに関するパターナリズム(父親的干渉主義)と権威主義に反抗している生徒をわたしが支持しているという事実に彼は非常に不愉快でした。


➡女子生徒ですか?


ハワード・ジン:ええ、黒人の女子生徒でした。ご存じのように、この運動はスペルマン・カレッジというせまい修道院のような雰囲気から彼女たちを連れ出し、世界にその能力を発揮させました。


➡作家のアリス・ウォーカーはその生徒のひとりだったんですね?


ハワード・ジン:ええ、アリス・ウォーカーはわたしの生徒のひとりでした。マリアン・ライト・エデルマン、わたしの生徒のひとりは現在、ワシントンのChildren’s Defense Fund(子ども擁護基金)の会長です。わたしはスペルマンにいた生徒たちをとても誇りに思っています。そうです、マリアン・ライト・エデルマンは刑務所に入りました、アリス・ウォーカーは刑務所にはいりました、本当です。そう、それはすばらしい時代でした。


➡ところで、ボストン大学は何年も後のことでした。なぜそこから追い出されそうになったんですか?


ハワード・ジン:ストライキがありました。大学の学部(学部の教授団)がストに入りました。秘書がストに入りました。上出来のストの後、彼らは学部の教授団と和解しましたが、秘書とは和解しませんでした。それで、わたしと他の幾人かの学部の教授が秘書のピケラインを越えることを拒否しました。すると、わたしたち全員に終身在職権があったにもかかわらず、拒否したわたしたちのうち5人が解雇すると脅されました。そして、それは長い闘争でしたが、わたしたちは勝利しました。


➡あなたは第二次世界大戦で爆撃手でした。日本でもなく、ドイツでもなく、フランスのあちこちの最後の爆撃についてあなたは話しています。


ハワード・ジン:ええ。そうですね、わたしたちは爆撃任務は終わったと思いました。戦争はほとんど終わろうとしていました。これが1945年4月のことです。あなたがたは1945年5月初めに戦争は終わったと記憶しているかもしれません。これは戦争が終わる数週間前のことで、誰もが終わることを知っていました。そしてわが軍はフランスを超えてドイツに入りましたが、フランスの大西洋岸にある小さな町ロワイヤンにぐずぐずとどまるドイツ兵の小さな孤立地帯がありました。空軍はそこを爆撃することに決め、1200発の大型爆弾です、小さなロワイヤンの町の上空を飛行してナパーム弾を投下しました、わたしはそのなかの一機に乗っていました。それは、ヨーロッパ戦域で初めてのナパーム弾の使用でした。

わたしたちが何人殺したのか、わたしたちがしたことの結果として何人がひどいやけどを負ったのか、わたしたちは知りません。でも、わたしは、ほとんどの兵士がそうであるように無意識のうちに機械的にそれを行いました。わたしたちは正しい側にいて彼らは間違った側にいる、だからわたしたちはなんだってやりたいことができると考え、それで問題なし。あとでやっと、実際に戦後やっとです、ジョン・ハーシーからヒロシマについて読んだとき、ヒロシマの生存者の顛末や彼らが経験したことを読んで、やっと爆撃の人間への影響について考え始めたのです。爆撃手としてわたしは3万フィート、高度6マイルを飛んでいました、悲鳴や叫び声は聞くことができません、流血は見ることができません。そしてこれが近代戦争です。

実際には人間に何が起こっているかわかりません。すべてが遠くで行われます。これが、恐ろしい残虐行為が行われるのを可能にします。あの爆撃を振り返って思うのは、ヒロシマや他のすべての民間人の都市、ドイツや日本の都市での膨大な数の一般市民の殺害、東京の一晩で10万人の殺害を振り返って思うのは、第二次世界大戦のようなファシズムに対するいわゆるりっぱな戦争でさえも、戦争はどんな根本的な問題も解決しない、そして戦争は常に敵も味方も両者の側のすべての人に偏見をいだかせ、だめにする。戦争は両方の側のすべての人の精神と感情をだめにします。わたしたちは今、イラクでそれを経験しています、求められていない土地で占領軍であることによって兵士の精神がだめになっています。そして結果はひどいものです。


➡フランスの村にナパーム弾を投下したのを知っていたんですか?


ハワード・ジン:実際、それがなんだったかわたしたちは知りませんでした。でも、それはナパーム弾でした。


➡あなたはあとでその村に行きましたね?


ハワード・ジン:ええ、行きました。戦後10年ほど経った頃です。破壊され、現在再建された図書館に行き、生存者の記録や爆撃について書かれたものを掘り起こしました。そしてロワイヤンの爆撃についてエッセイのようなものを書きました。わたしの本『The Zinn Reader』や、『The Politics of History』に出てきます。でも、それはわたしにはとても重要な経験でした、いわゆる、りっぱな戦争に関して人をしらふにさせるとても卓越した教訓でした。


➡ダン・ベリガンと一緒に北ベトナムに行きましたね?理由は?


ハワード・ジン:理由?これは1968年の初めのことでした。テト攻勢の時期で、ベトナムの祝日、テト休日の時期でもありました。北ベトナムの上空で撃ち落とされた最初の3人の操縦士捕虜を釈放したいと北ベトナムが思い至ったのです。そして彼らは3人をアメリカ政府ではなく平和運動の管理下で解放したがった。詩人で神父のダニエル・ベリガンにはこれまで会ったこともありませんでした。彼とわたしは一緒にハノイに行きました、北ベトナム人によって解放された3人のアメリカ人操縦士を受け取るためです。それからわたしたちはハノイとその周辺地域でしばらく過ごしました、爆撃された地域を訪れ、真夜中に空爆された小さな村を訪れました、そこは軍事標的の可能性のあるどこからも非常に遠く離れていました。わたしたちは爆撃されていました、ベトナムは毎晩爆撃されていました。毎日、わたしたちは防空壕に入りました。毎晩、ダニエル・ベリガンはその日のできごとについて詩に書きました。


➡ベトナムやイラクにアメリカ政府に背いて医薬品を届けたり、援助しに行くような人々に対してはなんと言いますか?裏切り者などと呼ばれます。


ハワード・ジン:愛国心を政府への服従と定義するなら、あなたは一種の全体主義の原則に従っているとわたしは考えます。政府があなたにしろと命じることをするのが全体主義国家の原則だからです。そして民主主義は政府が国民の道具であることを意味します。これが独立宣言です。政府は、権利、生きるための平等の権利、自由、国民のしあわせの追求を保つために設立された人為的な存在(統一体)です。政府がそれらの権利を侵害するとき、その政府に逆らうのは国民の義務です。それが愛国心です。


ハワード・ジン、あなたの自伝に『You Can’t Be Neutral on a Moving Train』(動く電車の上で中立者ではいられない)と名づけました。なぜですか?


ハワード・ジン:それはですね、自分のことからうまく手に入れました。どの授業でも最初に言ったものです。生徒は、先生がえこひいきのない中立者でいる授業の一員ではないという事実について、わたしは生徒に正直でいることを望みました。わたしは中立性を信じていません。中立は不可能だと思っています、世界はすでにある特定の方向に動いているからです。戦争が起こっています。子どもたちが飢えに苦しんでいます。そして中立者でいること、中立のふりをすること、そのような状況ではっきりした立場をとらないことはなんでも起こっていることに協力すること、それが起こることを許すことです。わたしは協力者になりたくありません。わたしは歴史のなかに入り、歴史の一部になることを望みました。わたしの生徒に果たすべき役割を演じることを望みました。わたしの経歴(過去のいきさつ)が平和のために、人種的平等または性的平等のために介入することを望み、はっきりした立場をとることを望みました。わたしの生徒には、最初から、動く電車の上で中立者でいることはできないことを知って欲しかったのです。


➡1914年コロラド州の民兵が石炭ストライキの労働者を銃で撃ち殺したことを歌ったウッディ・ガスリーの“ラドロー大虐殺(Ludlow Massacre)”

ハワード・ジンはかつて、この歌を聞いたことが彼には決定的でほとんどの歴史書から除外された歴史を調査(情報収集)して語るよう彼を鼓舞したと言いました。

2001年10月21日、ハワード・ジンはバーモント大学バーリントン校ですばらしい演説をしました。これは911の攻撃からわずか1カ月後でアメリカがアフガニスタンに侵攻して2週間後のことでした。アメリカ史上最長の戦争が始まりました。アメリカがついにアフガニスタンから撤退し、タリバンが支配権を取り戻したのは1年前の今月でした。下記は、2001年のハワード・ジンです。


ハワード・ジン:絶対にテロは終わらせないといけません。でも爆撃すればテロが終わるのでしょうか。見極めないといけません。

爆撃しても、爆撃された街で起きてることはあなたには何も見えません。悲鳴も聞こえません。

わたしたちはその光景をニューヨークで見ました。それはわたしたちをぞっとさせ、ひどいショックを受けました。人々がパニックになり、走って逃げるのを、あの爆発、巨大ながれきの山から逃げ惑うのをわたしたちは見ました。この人たちは実在する現実の人でした。でも、わたしたちが他国を爆撃した場合、その人たちはわたしたちにとって実在する人間ではないのです。

ニューヨークで起きた最初の恐怖を乗り越えたあと、わたしはあることを考えました、「ヘイ、わたしがヨーロッパで爆撃していたときはこんな風だったに違いない」と。あの人たちはわたしには取るに足らない人だったからです。そして「たぶん、このテロリストにとってはそれが目的だった」と思いました。彼らには使命があります。彼らには目標があります。テロリストにとってニューヨークの犠牲者は人間ではありません。そして世界の他の地域の人々は、わたしたちにとって人間ではありません。

この経験から得られるものがあるとすれば、それはつまり、アメリカとわたしたちの政策を吟味することになります。

事実を明白にすること、説明することは正当化することではありません。でも、なにも説明したくないとすれば、なにも学べません。つまり、正当化せずに、理解しなければならない、説明しなければなりません。

このテロの根本的原因に何があるか、見つけ出せるものなら掘り下げて考えてみる必要があります。不合理な考え、危険な感情、他にもテロの根源には何かがあるからです。この場合は殺人的で狂信的な感情でした、でも彼らはただの狂人ではありません。

アメリカの外交政策の結果として苦しんでいる人々が世界には何百万人もいる。こう言うと、わたしが誇張していると思うかもしれません、でも、いるんです。そして、ブッシュ大統領は記者会見で「なぜこの人たちが我々を憎むのか理解できない」というようなことを言いました。「我々は善人」と彼は言いました。まあ、時にはアメリカは善人です。アメリカにはいいところがたくさんあります。と同時に、アメリカが本当に邪悪で何百万人もの人々に死をもたらす政策を実行してきた時がたくさんあります、不幸なことに多すぎるくらいあります。


➡番組は2006年にジンがウイスコンシン州マディソンで行ったスピーチを特集しました。彼が奨学金に対する生涯の貢献に対してヘブン・センター(Haven Center)賞を受賞したときのものです。彼の講演のタイトルは『歴史の活用とテロとの戦い』です。


ハワード・ジン:先日、床屋と話していました、床屋とはいつも世界の政治について議論します。彼は、ほとんどの床屋そうであるようにまったく政治的に予測不可能です。彼は言いました、「ハワード、あなたとわたしは多くの事柄で同意しないが、“戦争はなにも解決しない”というのには同意する」とね。「そうかい。」人々がそれを理解するのは難しくありません。

繰り返しますが、歴史は役に立ちます。わたしたちには戦争に続く戦争、そのまた戦争に続く戦争の歴史がありました。戦争はなにを解決しましたか?戦争はなにをしましたか?りっぱな戦争、わたしが志願した戦争、わたしが爆弾を投下した戦争、第二次世界大戦さえもです。マーシャル将軍からわたしに宛てた、そして他の16万人に宛てた手紙を受け取りました。「我々は戦争に勝利した。新しい世界になる」と。もちろん、それは新しい世界ではありませんでした。戦争に続く戦争、そのまた戦争に続く戦争でした。

戦争についての考え。第一に戦争はそれに従事するすべての人を堕落させます。わたしたちが第二次世界大戦でしたように善人として始めます。彼らは悪者です。ファシストです。そして戦争が進むにつれて善人は悪人のようにふるまい始めます。これはペロポネソス戦争までさかのぼることができます。善人であるアテナイ(アテネ)人、悪人であるスパルタ人までさかのぼることができます。そしてしばらくすると、アテナイ人はスパルタ人のように無慈悲で冷酷になります。

そしてわたしたちは第二次世界大戦でそうでした。ヒトラーが残虐行為をした後、わたしたちは残虐行為を犯しました。日本で60万人の一般市民を殺害し、ドイツでもおそらく同数の一般市民を殺害します。この人たちはヒットラーでも、東条英機でもありません。ただの普通の人でした。そしてわたしは結論に達しました、戦争はすべての人に偏見を抱かせてだめにすると。

これは心に留めておくべき重要なことです、「我々はサダム・フセインを厄介払いする(殺す)つもりだ」と言って暴君との戦争を始めるとき、それはもちろん、ばかげた考えです。サダム・フセインが自国民を専制君主として支配したことをわたしたちの政府は気にしましたか?わたしたちは彼が専制君主として支配し虐げるのを助けました。わたしたちは彼を助けてクルド人を毒ガスで攻撃させました。いやはや、わたしたちは彼を助けて大量破壊兵器を蓄積させました。

ドイツでわたしたちが殺した人々はヒトラーの犠牲者。日本でわたしたちが殺した人々は大日本帝国軍の犠牲者でしたよね。そして戦争で亡くなるのが軍人ではなく民間人であることがますます増えています。第一次世界大戦では民間人の死者1人に対して軍人の死者10人でした。第二次世界大戦では軍人と民間人の死者が半々でした。ベトナムでは70%が民間人、30%が軍人です。それ以降の戦争では、民間人の死者が80%、85%です。

数年前にわたしはジーノ・ストラーダ(Gino Strada)というイタリア人の戦争外科医と友だちになりました。彼は10年、15年を費やして世界中の戦争犠牲者に外科治療(手術)を行ってきました。彼はそれについて本『Green Parrots: Diary of a War Surgeon』(緑のオウム:戦争外科医の日記)を書きました。イラク、アフガニスタン、そしてどこでも、彼が手術を行ったすべての患者のうち85%が民間人、その三分の一が子どもだったと言っています。戦争について教えられたことがなんであれ、それは常に子どもたちに対する戦争です。子どもたちが大量に死ぬ人たちです。

さて、第一次世界大戦後にアインシュタインは「戦争は人間らしく情け深くなりえない。廃止するしかない」と言いました。戦争は廃止しなければなりません。30年かかりましたが、奴隷制は廃止されました。

歴史から学べることの一つは、権力者によって押しつけられた事態の歴史だけではないということです。歴史は抵抗の歴史でもあります。それは何十年にもわたって専制政治に耐えてきた人々の歴史ですが、最終的に立ち上がって独裁者を打倒した人々の歴史です。これはフィリピンで、イエメンで、ネパールで起こっています。街頭に何百万人もの人々がいる、そして次には国の支配者はどかなければなりません。ですから、これがこの国でわたしたちが目指していることです。

わたしたちがすることはすべて重要です。ピケライン、請願書や手紙、市民的不服従の行為、小さなことすべてがです。たとえ現時点では無駄に思えても、それが変化が実現する方法だからです。何百万もの人々がわずかなことをするとき、変化が実現します。歴史のある時点でそれがいっしょになり、なにか喜ばしいことやなにか重要なことが起こります。


➡彼が亡くなる前年、2009年5月にハワード・ジンが番組に参加しました、彼が『A Young People’s History of the United States』のペーパーバック版に乗り出したときでした。コロンブスや他の昔からの英雄に関する彼の形を変えた語りが子ども向きだと思うかどうか彼に尋ねました。


ハワード・ジン:何度も何度も人々がその質問をしたのは事実です。コロンブスは偉大なヒーローだったと子どもに語るべきでしょうか、コロンブスはインディアン(アメリカ先住民)をずたずたに切断し、彼らを誘拐し、ゴールド(金)を求めて彼らを殺害しました。偉大な大統領のひとりとして引き合いに出されるセオドア・ルーズベルトは軍事的手柄が大好きで、フィリピンで大虐殺を犯したアメリカの将軍を祝福した、実は戦争挑発人(戦争屋)だったと人々に語るべきでしょうか?若者にそう教えるべきですか?

若者には正直であるべきだというのが、答えだと思います。若者を欺いてはいけません。わたしたちの歴史について正直であるべきです。そしてアンドリュー・ジャクソンやセオドア・ルーズベルトのような昔からの英雄をへこませる(謙虚にさせる)だけでなく、既存のものに代わるヒーローを若者に与えるべきです。ルーズベルトの代わりにマーク・トウェインについて語ります。マーク・トウェインはトム・ソーヤやハックルベリー・フィンの作家としてだれもがおぼえます、でも、学校でわたしたちは彼が反帝国主義同盟の副大統領であることを学びません。セオドア・ルーズベルトをフィリピンでのこの虐殺を承認したとしてマーク・トウェインが非難したことは教えられていません。

わたしたちはヘレン・ケラーのような理想の人物を若者に伝えたい。そしてわたしはヘレン・ケラーについて学んだのをおぼえています。ヘレン・ケラーについて、ハンディキャップを克服して有名になった障がい者だとだれもが知っています。でも、わたしたちが『A Young People’s History of the United States』のような本を書く時に知って欲しいこと、ヘレン・ケラーが社会主義者だったということを、人々は学校で学びませんし若者は学校で学びません。彼女は労働組合のオルグでした。彼女についての演劇を上演している劇場をピケで囲んでいたピケラインを越えることを彼女は拒否しました。

そして、アメリカ史には既存のヒーローに代わるこれらのヒーローがいます。Fannie Lou Hamerやボブ・モーゼスがいます。公民権運動のヒーローたちがいます。『Young People’s History』には、バスから降りるのを拒否したアラバマ州モンゴメリーのバスに座っていた若きヒーローがいます。それはローザ・パークスの前でした。ローザ・パークスは席を立つことを拒否したことで当然有名ですし、彼女は逮捕されました。それがモンゴメリー・バス・ボイコットの始まりでしたし、また南部の大きな運動の始まりでした。ですが、この15歳の少女が最初にそれをやったのです。わたしたちはこれらの無名の人々の多くをなんとかして注目の最前線に戻して、「これが生き方だ」と言って、若者を激励しようとやってみています。


https://www.democracynow.org/2022/8/24/remembering_howard_zinn_on_100th_birthday