見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2022/09/20

ゴルビー!ここから出してくれ

 


ミハイル・ゴルバチョフが死去しました… ゴルビーはベルリンの壁崩壊に欠かせないコマでした

クイーン(エリザベス女王)がこの世を去り、天国でクイーンのフレディ・マーキュリーと再会します。フレディに「デュエットしますか?」と言われ、女王が「Why Not !(もちろんよ!)」と応じるイラストが話題になっているとか

ここにあるので見てください https://amass.jp/160746/




写真は、1987年6月9日、東ベルリンの音楽ファンがボウイの演奏を聞こうとベルリンの壁に近づきすぎるのを止められている(AP)


◇デヴィッド・ボウイはこのようにしてベルリンの壁を倒すのを助けた

September 12, 2019 


1987年、デヴィッド・ボウイは国会議事堂近くの西ベルリンでコンサートを行った。演奏は大音量を出し、彼の歌をもっとましに聞くために近くのベルリンの壁の東側にすごい群衆が集まった。彼には、鉄のカーテンの向こう側で東ドイツ人が自分といっしょに歌っているのが聞こえた。


当時、それがベルリンの希望をくじく東西分裂の終わりの始まりのための触媒になることをボウイは知らなかった。


ベルリンの壁は東ベルリン市民(およびすべての東ドイツ人)を東ドイツの内側に留めておくために1961年に建設された。間違いなく、欧米人を中に入れないために必要だったのではなかった。それはすぐに東ヨーロッパの上に迫る鉄のカーテンのシンボルになった。片一方を強いられた共産主義の抑圧に服従させておき、もう一方を自由と自治の急成長する社会に留めておく東西間の障壁だった。


ボウイが1977年のアルバム“Heroes”をレコーディングしたのはベルリンだった。それは東ベルリン出身と西ベルリン出身のふたりの恋人についての曲。ベルリンのシェーネベルク(Schöneberg)地区でパンクの伝説の人、イギー・ポップと暮らしていたボウイはドアの外に出て冷戦まっただ中の生活に属している専制政治と死を経験することができた。この曲の歌詞はまさにベルリンの窮状について描写したものだったので、ベルリンのアンセム(祝歌)のひとつになった:

I, I can remember (I remember)

Standing, by the wall (by the wall)

And the guns, shot above our heads (over our heads)

And we kissed, as though nothing could fall (nothing could fall)

And the shame, was on the other side

Oh we can beat them, forever and ever

Then we could be heroes, just for one day


7万人のドイツ人が1987年のコンサート・フォー・ベルリンに随行した。

アーティストたちはベルリンで何年も過ごし、“Heroes”に加えて、“Low”と“Lodger”のアルバムをレコーディングする。現在、それらはボウイの「ベルリン3部作」と呼ばれている。“Heroes”のレコーディングから10年後、ボウイは、西ドイツの国会議事堂(Reichsta)の近くで開催された3日間のフェスティバル、コンサート・フォー・ベルリンの一環としてベルリンに戻ってきた。近くにブランデンブルグ門があり、悪名高いベルリンの壁に達する。ドイツ民主共和国(東ドイツ)で禁じられた音楽が西側で大音量で鳴り響き、壁を越えて軽々と運ばれた。


ボウイに加えて、ユーリズミックス、ジェネシス、ブルース・ホーンズビーが登場した。門の近くのエリアに何千人もの東ベルリン市民が群がり始め、東ドイツの警備員が彼らに反撃し、エリアから引きずり出して手に負えない人々を逮捕したとき、耳に入ってくるものを聞き取ろうと試みた。壁の近くで聞けないとすれば、電波によって聞くことができた。ラジオ局Radio in the American Sectorが、アーティストとレコードレーベルの「どうぞ、よろこんで」の承認を受け、コンサートをすっかり街中くまなく放送した。


「それは壁が仕切りの二重のコンサートのようだった」とボウイはアトランティック紙に語った。「そしてわたしたちには壁の反対側から彼らが歓声を上げて歌っているのが聞こえた。すごい、今でも息がつまる。胸の張り裂ける思いだった。わたしの人生でそのようなことをしたことは一度もなかったし、もう二度とないと思った。わたしたちが‘Heroes’を演奏したとき、本当に聖歌を歌って祝うように、ほとんど賛美歌のように感じた。」


ついに、群衆が本格的なシュプレヒコールに突入した、「壁は倒れなければならない!」、そして「ゴルビー(ゴルバチョフ)、わたしたちを出してくれ!」3日目の夜、コンサートが終了したとき、東ドイツの警察が警棒で群衆を撃退した。ボウイは2日目の夜に主役を演じたが、間違いなく彼のパフォーマンスは次の夜、もっと多くの東ベルリン市民を壁に惹きつけた。それほどの多くの住民を反政権にさせたのは、東ベルリン警察からの過剰反応だった。それは街のムードを完全に変えた。ベルリンが分割されたのはフラストレーションが壁を圧倒する前のわずか2年のみだった。


「アルバム‘Heroes’ のタイトル曲はボウイの最もよく知られる作品のひとつで当時分断されていたわたしたちの街と自由へのあこがれの賛美歌になりました」とベルリン市長ミヒャエル・ミュラーは述べた。「この歌で、ボウイはスタンダードナンバーを固めただけでなく、間違いなくわたしたちの街への愛着を表現しました。」


壁が倒れて街が統一された後、ボウイは1989年に再びベルリンで演奏した。ベルリンでの彼の最後のショーは2004年だった。2016年にボウイが亡くなったとき、ドイツ政府は壁を倒し東西に二分されたドイツを統一したことに対して彼に公式に謝意を表した。


https://www.wearethemighty.com/music/david-bowie-berlin-wall/