見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2008/07/07

ビクトル・ハラの勇気とバラード



ロンドンをベースに仕事するオーストラリア生まれのジャーナリスト、ジョン・ピルジャーの最初のドキュメンタリー作品、「The War On Democracy(民主主義に対する戦争)」は、水道料金が一気に3倍に値上がりする南米ボリビアの水道民営化に抵抗する驚くべき民衆蜂起について伝えている。ボリビアの水戦争と呼ばれるもので、ボリビアの労働者と市民らは米国の大企業を追い出すことに成功する。映画はまたジョン・ピルジャーが特別の思いを抱く、チリのアジェンデと共に立ち上がり米国の支援を受けるピノチェットのファシズムと戦った人たちの勇気に関するもので、民衆にとって南米は「なんにも変わってきていない」との私たちへの警告でもある。
以下は、そのボリビアの水戦争についてーー。

◇ボリビアの水戦争
ボリビアで水戦争が始まるまでは、ボリビアは世界銀行とIMFにとっていいカモだった。
1999年、世界銀行は、ボリビア第三の都市コチャバンバの公営水道を民営化すれば600万ドルの対外債務を帳消しにすると持ちかけて、ボリビア政府に民営化を迫った。
政府は「飲料水および衛生法」という法律を制定、補助金も打ち切って、水道は民営化される。
売却先の米国最大手の建設企業ベクテル社の子会社、ロンドン国際水供給会社は、数週間後、水道料金を3倍に値上げした。最低ラインの給料が100ドル未満の家庭に、月額20ドルの水道料金が請求された。それは家族5人の2週間分の食費に相当した。そして支払い能力のない人には容赦なく水の供給が止められた。
ことの深刻さに、2000年1月、「水と生活を守る市民連合」が結成され、市民に動員がかけられた。コチャバンバは4日間閉鎖した。ひと月経たぬうちに数百万のボリビア人がコチャバンバに向かって行進した。ゼネストに突入。決起集会で、国民すべての水の権利を守る要求、「コチャバンバ宣言」が出される。
政府は水道料金を下げると約束したが、約束は守られなかった。2月、市民連合は「水は神の贈り物であって商品ではない」、「水はいのち」というスローガンを掲げて新法の撤回を要求、平和的なデモ行進をする。
2000年4月、IMF、世界銀行、米州開発銀行が援助停止の脅しをかけて政府は戒厳令を宣言。数千人の兵士と警官を配備して抗議の鎮静化をはかろうとする。警察は反乱指導者らを深夜襲撃して逮捕、地元ラジオ局を閉鎖。武装兵士が街を監視した。(4月と9月の騒乱による死者9人、重傷者175人、失明した子ども2人が含まれる。)
当時の大統領ウゴ・バンセル・スアレスは1970年代にピノチェット流の独裁を行った人物。だが、弾圧は長く続かなかった。ついに4月12日、米国企業がボリビアを追い出される形で出て行き、政府は水道民営化法を撤回。水道会社は借金付きでボリビアの労働者と市民に引き渡された。2000年夏、市民連合が民主的経営計画と経営陣を決めた。
これは1980年代から1990年代にアメリカ合衆国がラテンアメリカなどの諸外国において押し進めてきた新自由主義経済モデル、すなわち経済の自由化や民営化に対する、初めての拒絶行動だった。だが戦いはこれで終わらなかった。ベクテル社がボリビア政府に対し、2500万ドルの損害賠償請求を起こした。ベクテルは契約解除による損害賠償を求めて政府と争っている。
(Wikipediaのコチャバンバ水紛争、などから抜粋)

◇ベクテルの犯罪
2003年6月1日ー5日、全米各地でアメリカ大手ゼネコンのベクテルに対する抗議行動が行われた。この行動はイラク戦争に反対してきたグローバルエクスチェンジやグローバル企業監視のNGOによるもので、行動の目的は「ベクテルの企業活動が世界で引き起こしている人権侵害、環境・健康破壊の事実の暴露」「ブッシュ政権がベクテルなどと共謀して進めている復興名目のイラクへの経済侵略・資産強奪行為の停止」を訴えることだった。
バグダッド占領直後の4月、米国際開発局(USAID)は電気・道路・水道など、1年半におよぶインフラ復旧事業をベクテルに発注した。これは総額6億8000万ドル(約816億円)の巨大な契約だった。
ベクテル社は、世界のいたるところで環境や健康破壊、人権侵害を引き起こしているグローバル資本の典型のような企業。今回のイラク「復興」事業には水道事業も含まれている。ボリビアのコチャバンバがそのよい例で、ベクテルはこれまでに世界各地で水道の民営化事業にかかわって生存権をおびやかすほど深刻な被害を市民にもたらしてきている。

写真は、ジョン・ピルジャーにドキュメンタリー映画を作ることを思いつかせたひとり、チリのミュージシャン、ビクトル・ハラです。彼は1970年代初頭のチリでアジェンデのもと歴史上初めて平和的手段による社会主義への道、「赤ちゃんにミルクを、子どもに教育を、働く者に憩いを」を試みた。だが、米国が支援したクーデターでアジェンデは死に、大勢がピノチェット将軍の手下によって虐殺された。そのなかにビクトル・ハラもいた。
ピルジャーは彼の最新の記事、「ラテンアメリカの謀反、その<民主主義に対する戦争>の起源」の中でこう書いているーー。
ビクトル・ハラの歌は、ピノチェットとCIAがそれを沈黙させて絶ってしまう前のサルバドール・アジェンデの人気のあった民主主義をほめたたえた。
ハラが他の何千人もの政治犯といっしょに逮捕されたチリのサンティアゴにある国立競技場で私たちは撮影した。誰から聞いても、彼は同志の抵抗力の源だったし、兵士たちが彼を地面に叩きつけて彼の両手をこなごなに砕くまで、彼は同志のために歌った。彼はそこで最後の歌を書き、その紙くずに書かれた歌はそっと持ち出された。以下がその歌詞だーー。

なにがファシズムの恐怖をものともしないか
創作すること
ナイフのような精密さで
彼らはその計画を遂行する
彼らにとって、血はメダルに匹敵する
恐怖について歌わなければならないとき
歌うことがどんなにつらいか
沈黙と悲鳴のなかで
私の歌は終わる

拷問の2日後、彼らは彼を殺した。「民主主義に対する戦争」は、そのような勇気についてと「彼らにとって」なんにも変わってきてないこと、「血はメダルに等しい」ことを、私たちに警告するものだ。

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