見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2010/03/13

パティ・スミスの Just Kids



◇裸足でダンス:パティ・スミスの「Just Kids」
ロックのあこがれの的が若いときを回顧する

「ジョン・マッケンドリー(メトロポリタン美術館写真部門キューレータ)がニューヨークのハイソサエティの主役、マキシーン・デ・ラ・ファレーズ(2009年4月死去、50年代ファッション信奉者、ファッションモデル、アングラ映画女優、料理本を出版)と結婚した。ジョンとマキシーンは、このうえもなく魅惑的だった世界に入る機会をロバート(メイプルソープ)に供給した。」デ・ラ・ファレーズは「秀でたコック」で、「差し出されるどの洗練されたコース料理にも同じ程度によくスパイスが効いた彼女の客による当意即妙のやりとりがあった。彼女のテーブルに座った典型的な例では、ビアンカ・ジャガー、マーサ&ベリー・ベレンソン、トニー・パーキンス、ジョージ・プリンプトン... 」

ここで、そして他にも幾つかの箇所で、この本がほんとうにパティ・スミスによる回想録なのかどうか確かめようと、あなたはいまにも「Just Kids」の表紙を裏返そうとしていたかもしれない。さらにパティ・スミスの歌や彼女のタフな初期の詩から私たちが慣れてるものではない、スーザン・ソンタグのジャンルの新しい試みか、ことによるとロマンス小説のように感じさせる。けれども彼女が外国のスタイルを得ようと努めるのはそれほど不思議なことではない。彼女はランボーの霊媒になろうとして乗り出し、それを今ではたいしたものの彼女独自の詩的なロックンロールに変えた。

彼女はここでは同様の上出来の変換に達しない。「Just Kids」は時々、詩人によって書かれた長い散文のいつもの欠点を有するただの記念のアーチではあるが、クラリネットの新たな試みでのように、みごとなできでなくても、その献身的な熱意の力によってパティ・スミスはあなたを引きつける。

ここで彼女の強い愛着の主たる対象は、1989年エイズで死んだ、彼女の愛人であり友人、芸術のパートナー、ロバート・メイプルソープだ。「Just Kids」は彼らの関係についてであり、また関係外の少なくとも最初の評判までの彼女の人生についてでもある、したがってこれは、長いことこれを待ってきたファンを喜ばすに決まっている部分的な自叙伝になる。

パティ・スミスは1946年シカゴで生まれ、ペンシルバニアのジャーマンタウンに、その後、サウスジャージーに移った。本は幼年期の記憶、ピーターパン冒険心の少年団を率いる熱中とわるさで始まる。(一方、若きメイプルソープは、母親のためにビーズに糸を通し、宝石に絵を描くことで忍耐ともの作りを学んでいる。)パティ・スミスは、「ヤングレディになるのが肝心」だからと、「私のダチの前で」シャツを着るよう母親に言われるとき腹を立てる小さな反逆者になる。パティ・スミスは十代で妊娠する、赤ん坊を放棄して、芸術の夢を抱く若者は「誰も私に期待しない、すべてが私のために用意されている」ビッグシティをめざす。

メイプルソープもまたそこにいてプラットでアートを勉強する。空腹でストリートを歩くパティ・スミスは彼とばったり出会い、二人はロマンチックな物語風の夜を共有する(「彼と一緒で私が感じた快適さと開放感に驚いた。LSDでトリップしていたと彼は後で教えた」)。すぐに二人は最初はロマンチックに人生を共有する、だが主として共通のアートと名声の夢を分かち合う。創作するためほとんど逆上状態の二人はどちらも自己の考え、仕事に夢中だ、二人の薄く透き通るもやのような寝室「ロマンチックチャペル」を彼が破壊して反射するマイラー(ポリエステルフィルム)に代えたときパティ・スミスの初期のメイプルソープに対する期待はずれのひとつがやってくる。(後に、彼が自分はゲイと公表してパティ・スミスの驚きに。)だが、銭が不足すると(貧乏、不振、淋病)二人は互いの面倒をみる。ものごとが満足のいくとき、二人はダンスする。

途中で二人は身を立てる道を開く。「Just Kids」は、ヒッピーとパンク時代の間のくたびれたダウンタウンシーンについて、そして文化的な情熱を燃やし続けた生存するアーティストと企業家について、とっておきのバカ丁寧な説明をする。私たちはまた、この二人のスターの日の出の勢いが才能によって駆られたのではなく、マックスの極上のテーブルの釣りの腕かまたはデ・ラ・ファレーズのディナーパーティで描かれるもっと高尚なネットワーキングか、いずれにせよ、社会的よじのぼりが欠かせなかったことを示される。

パティ・スミスが伝えるとき、メイプルソープはいっそう刺激されるよじのぼり屋で、そのせいで彼女は時々彼を非難する。「あなたは近道を期待している」と彼女は彼に言う。「なぜボクは長い手段をとらなきゃならないのか?」と彼は返答する。だが、彼女はずっと従って自分を関係させる。(「サム・シェパードといっしょに一体何をしているの?」とジャッキー・カーティスが彼女にわめく。)極度に自信過剰のパティ・スミスが出世の手づるを景気づける必要があったとは、私たちにはイメージし難いかもしれないが、メイプルソープは明らかに彼女を刺激して順番にコラージュから彼独自の写真へ移行するよう彼をせきたてる。

キュートな少年だと思ったから、アレン・ギンズバーグが自動販売式のカフェテリアでパティ・スミスに食事をおごるというような、幾つかすごい逸話がある。(あとで彼がこの遭遇を彼女がどう報告するか心配するとき、彼女が飢えていたとき彼が食べさせてくれたと言うつもりだと彼女は返答する、これは賢いし、たぶん彼女の巧妙さだ。)しかし、パティ・スミスがあの不毛の時代にそうしたように、「Just Kids」はメイプルソープに戻り続ける。つまるところ、それは自叙伝かもしれないが、どちらのことばの意味においても、彼女は彼なしには自分自身を思い描くことができなかった。

(villagevoice.com 26 Jan 2010 by Roy Edroso)

写真は、写真ブースを共有するパティ・スミスとメイプルソープ(1969 Courtesy Patti Smith)