見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの、見つけたとき、 それを作品にしたり、思わずなにかの形にして、人に 伝えたくなります。 見つけたとき感じた、しあわせ感覚が、ひとしずくでも 誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

March 07, 2010

マンハッタン少年日記にあこがれて



昨年9月に亡くなったジム・キャロルの追悼記事 時間が経過してますが... 
やはりビートジェネレーション、パンクムーブメントへのあこがれもあって
行ったニューヨークシティ 記録しておこうと思います

◇「バスケットボールダイアリーズ(邦題:マンハッタン少年日記)」の作者、パンクの羨望の的、ジム・キャロルが60歳で死す

その人生談が、自叙伝「バスケットボールダイアリーズ:マンハッタン少年日記」の中で誰もが知っているとおり詳細に記述された詩人でパンクロッカーのジム・キャロルが、2009年9月11日、ニューヨークシティで心臓発作のあとに死んだ。キャロルは60歳だったとニューヨークタイムズ紙は報じる。1960年代ティーンエイジャーとしてドラッグ濫用で苦闘するキャロルを詳細に叙述する「バスケットボールダイアリーズ」は大学進学予備校のバスケットのスターから売春に頼るヘロイン中毒へと彼の転落を描写する。すべてはキャロルが17歳になるより前だった。1995年のこの本の映画化でレオナルド・ディカプリオがキャロルを演じた。「バスケットボール」のほかにも、キャロルの他の注目に値する作品には、「4 Ups and 1 Down」や1973年の「 Living at the Movies」がある。

詩人としての地位を確立した後、キャロルは友人パティ・スミスに幾分うまくのせられて今度は音楽に転向した。キャロルはローリングストーンズのキース・リチャーズの目にとまった、キースはジム・キャロル・バンドが3枚のレコード契約を確実にするのに助力した。彼らのファーストアルバム、1980年の「カソリックボーイ」はニューヨークパンクシーンの画期的事件とみなされる。キャロルは続いてもう2枚のLP、1982年の「Dry Dreams」と1983年の「I Write Your Name」で第一歩となった。それにまた、1998年には4枚目のアルバム「Pools of Mercury」を出した。

映画「バスケットボールダイアリーズ」のサントラでも彼の歌「カソリックボーイ」のニューバージョンでパール・ジャムとコラボするキャロルを見つけた。カソリックボーイはあまりにも早く死んだキャロルの友だちに寄せる抒情詩、キャロルの「People Who Died」はまた、スピルバーグの「ET」のサントラでも特別扱いされた。

「私は1970年代に彼と出会った。すでに彼はほとんど例外なく彼の世代のベストの詩人として受け入れられた」と、今週末のニューヨークタイムズ紙にパティ・スミスが語った。「作品は洗練されていてエレガントだった。彼には絶妙なくだり(すぐれたところ、美点)があった。」ローリングストーン誌は「Pools of Mercury」発売の翌年、1999年にジム・キャロルと対談した。そのときキャロルは、歌を書くプロセス、「バスケットボール」のインパクト、ビート詩人アレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズの死、カート・コバーンとの出会いを論じた。

(RollingStone 14 September 2009)

◇ジム・キャロルを回顧 ~感謝~

彼はバスケットボールの語り草、詩人、ミュージシャン、そしてとりわけ友人だった。「他の誰よりも君を恋しく思う」と彼が言うくらい。

金曜日マンハッタンで60歳で心臓発作で死んだジム・キャロルは13歳のときには伝説的人物だった。それは、詩人のテッド・ベリガンが彼を連れてジャック・ケルアックを尋ねたときだ。ケルアックはジムの書いたものに目をやって、「ジム・キャロルは、今日書いている小説家の89%よりましな散文を書く」と言ったのだ。

でも、ボクは彼のバスケットの語り草に少なくともそのくらい引きつけられた。近隣がまだアイルランド語だったとき、ジムはオヤジが密造者ダッチ・シュルツのためにバーの仕事をしていたと言った、マンハッタン北端のインウッドへ家族と共に引っ越したローアーイーストサイドで育った子が、奨学金をもらってエリート校トリニティスクールへ、続けてどんどんニューヨークの街全体を申し分のないものにするただひとりの白人の子になっていく、それから、きわめて多彩な大学の奨学金を断って、ローワーイーストサイドに戻り、ヘロインを打って、容赦のないポエトリーの偶像を追い求める。


(LATimes 16 September 2009 by Lewis MacAdams)

◇ジム・キャロルの死が詩に空虚を残す

ヘロインはジム・キャロルが十分な可能性に届くのを妨げていたかもしれないが、詩の神童として彼の遺産に異論はない。

先週のジム・キャロルの死でアメリカは非凡で最も過小評価された詩人の声のひとつを失ってきている。彼の最も人気のある作品「バスケットボールダイアリーズ」で描写されるように、それと見合う美しいアイルランド人のルックスを持つアイルランド系アメリカ人のバーテンダーの3代目の息子、キャロルは、ニューヨークのローアーイーストサイドで育った。エリート私立学校でオールスターチームのバスケットボール選手として十代の二重生活や、持ち上がるヘロイン中毒とジャンキーのシーンを取り囲むストリートライフを詳細に叙述した日記を12歳でつけはじめる、彼は詩の神童でありそれと対照をなす男でもあった。

ランボーやフランク・オハラといった人たちに鼓舞されて1965年セントマークスプレイスでワークショップに参加し始めて一年後の16歳でデビュー作品「Organic Trains」を出版した。特にヘロイン中毒の資金調達のため時たまタイムズスクエアーのコールボーイとして働いてもいた16歳にしては大きな手柄、パリレヴュー誌に「バスケットボールダイアリーズ」からの抜粋が出た。

バロウズやケルアックのような人たちに彼を紹介し、キャロルをかばったのは詩人のテッド・ベリガンだった。キャロルの上昇は、アンディ・ウォーホール、ベルベットアンダーグラウンド、ロバート・メイプルソープ、パティ・スミスを生産した時代、60年代後半から70年代初頭のマンハッタン・ダウンタウンに集中した文化的爆発とまったく一致した。ある日ボブ・ディランと酒を飲み、翌日はアレン・ギンズバーグの口説きをかわすなど、キャロルは彼ら全員から大いに敬意を表された。それはのちほど、まず間違いなく彼の最強の散文コレクションの「Forced Entries: The Downtown Diaries 1971-1973」に詳細に記録される。

次に、少なくとも確かに財政的に詩よりもうかる音楽的キャリアをキャロルが享受したとき、それは意外でもなんでもなかった。 だが、ロックミュージックはキャロルにとって実は常にありがたい気晴らし、副業なだけだった。彼のハートが内面的な文学の世界にあるのは明らかだったし、彼の作品はある核心のテーマ、宗教とカトリック教信仰、夢、麻薬常用癖、ニューヨーク、幼年期と思春期、死、サバイバルに回帰し続けた。

キャロルの詩の作品数はスリムだった。20年で3冊の詩集を出版した。1973年「 Living At the Movies」、1986年「The Book Of Nods 」、1993年「Fear Of Dreaming」、けれども彼が出版したすべてが辛辣で、啓発し、人を高尚にした。MTVが彼を番組に招いたとき、彼は主流にスタイルを移すほんの少数の現代詩人のひとりだった。彼はまた1993年Lollapaloozaツアーでバンドとバンドのあいだに詩を読んだし、1995年に再びMTVに登場し、見覚えのあるダウンタウンの調子で「カート・コバーンのための8フラグメント」を読んだ。

キャロルが十分な可能性に届くのをヘロインが妨げている感じは変わらなかった、彼はある批評家たちが予言した「80年代のディラン」ではまったくなかった。けれども彼にユニークな詩の観点を提供したのもまたこのアウトサイダーのステイタスだった。「この想像力がそんな高度を必要とするとは嘆かわしい」と彼は書いた。「むしろ私は残りの全部とうまくいくほうを選んでいるだろう。」最後に、はっきりしている事実:彼の朗読会は頻繁に売り切れた、アーヴィン・ウェルシュ、トニー・オニールといった作家や映画作家ハーモニー・コリンへの彼の影響は明白、そして先週彼が書斎で死んだとき、ウォーホルがアートでそうだったように、ベルベットアンダーグラウンドが音楽でそうだったように、彼は20世紀後半のアメリカ文学の代表として充実した内容の作品をあとに残した。

(Guardian.co.uk)

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