見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2010/07/02

マラドーナに勝ってほしい



南米のために、キューバのために、マラドーナのアルゼンチンに勝ってほしい!

昨年のカンヌ上映にこぎつけたエミール・クストリッツァ監督のドキュメンタリー映画「マラドーナ」をやっと見た。撮影開始は2005年のマラドーナの娘の誕生日だが、途中、マラドーナが死にそうになったり、いろんなことがあって、結局、2007年までかかる。
まさに二人の闘士(ひとりは映画を商売からアートに取り戻そうと闘う、ひとりはフットボールで血に染まった西側諸国のずるさと闘う)は会うべくして出会った。

まもなくドイツ対アルゼンチン準々決勝のキックオフ
間に合ったら、この映画を見てからの観戦をすすめる。

http://www.maradonafilm.com/
2008年の映画(2005年〜2007年に撮影)
マラドーナと監督エミール・クストリッツァ、同志の出会い

英国チャールズ皇太子の会いたいとのオファーを「彼は血に汚れている」と言って断り、アメリカとキューバからの功労賞のオファーにはキューバからのみ受け取る男、マラドーナ。もちろんカストロとも会って満面の笑み。そして世界の政治家でもカストロだけは違うと断言した。

エミール・クストリッツァは、マラドーナはフットボール選手というより革命家、まるでセックスピストルズのようだとも言う。実際、イングランド対アルゼンチン戦は「フォークランド紛争のあだ討ち」だったとマラドーナ自身が告白する。あの紛争で死んだ若者たちのために戦った、試合に勝利したとき、仕返ししてやった!と思ったと述べている。

2005年11月4日、当時のブッシュ大統領がアルゼンチンに来るというので、「やつをアルゼンチンには入れない!」大反米集会が起こった。監督もマラドーナ、ボリビアのモラレス大統領らと同じ列車で向かった。この列車のなかの熱気がすごい、監督も言っていた、目の前で起こっていることに身が震えたと。大集会を仕切るのはベネズエラのチャベス大統領、彼もまた「マラドーナが来てくれた!」と興奮して紹介する。

ラスト、ストリートでマヌ・チャオが「マラドーナになりたい、マラドーナのようにプレイしたい」という曲を歌うとき、ストリートにいたマラドーナが実に感慨深くマヌ・チャオに近づき、向き合う。(わたしはマヌ・チャオの大ファン)すごいシーン!これだけでも見応えあり!ストリートでマラドーナを迎え囲むひとりにニール・ヤングの姿があった。

1986年Wカップ、イングランド戦で5人抜きの世紀のゴールを決める。
イタリアリーグ・セリエAのナポリに移籍、初優勝に導く。
だが、90年のWカップ・イタリア大会でイタリアと対戦し勝利した後、イタリアとの関係が悪化、その後コカイン使用が浮上して15カ月の出場停止処分を受ける。これについては(ナポリのオーナーとFIFA会長がなにやら企む)はめられたと言っている。
コカイン中毒、極度の肥満、アルコール依存症、危篤状態、もろもろを経て、いま、マラドーナはアルゼンチンの代表監督として南アで元気な姿を見せている。
マラドーナの「神の手」教というのがあり、おもしろい。
「コカイン中毒さえなかったら、まだプレイできていたと確信できる... ボールは汚れていない。」

◇マヌ・チャオが“クレイジー”なCDをプロデュース
アルゼンチンの「ラ・コリファタ」
vendredi 1er février 2008, par nahoko

「このディスクは、僕のキャリアでもとりわけ重要なものの一つになると思うんだ」マヌは語り始めた、絶えることのないほほえみ、ルポライターのタンタンのような風貌で。ラテンアメリカに恋をして、世界を渡り歩くミュージシャン。彼は2007年12月、アルゼンチンにいた、アルバムを、前代未聞のアーティストたちと録音するために。そう、ブ エノスアイレス、ラ・ボルダの精神病院の患者たち、自らのラジオ局「ラ・コリファタ」を運営し、そこでクレイジーな土地のスラングで話している彼らだ。 1991年、アルフレッド・オリベラという若い精神科医によって設立されたこのラ・コリファタは、アルゼンチンでは大いに成功し、海外にもファンがいる。 毎週土曜日、番組は、施設の壊れかけの壁の向こうに閉じこめられた500人の患者たちの隔離と苦痛を打ち破る。病院の権威者たちは無関心を装うが、この電波によるセラピーはなかなかの結果を出している。ラジオにかかわる何人かの慢性患者たち、いうなればコリファトスたちのうちには、施設を離れ家での療法に切り替えることが可能になった者がいるのだ。

「彼らは僕を激変させたんだ、初めて録音で聴くことができたその日からね。一目惚れだね、僕らは友人になったんだ。」マヌ・チャオはそう語る。 「言葉の壁はあるけど、世界中の人に聴いてもらいたい。彼らは僕にいろいろなことを教えてくれたんだ。彼らには幻覚を起こさせるような正気があるんだ、それによって人生の問題、愛、そして政治なんかを三言で総括する。それっていうのはね、純粋な状態でのポエジーなんだ、プレヴェールのね。それから、彼らの間にはかなりの寛容性があって、誰もが他の誰かのキチガイぷりを受け入れてるんだ!ぼくはといえば、キチガイの境目っていうのがわからない。僕にとっては、境目はそのキチガイが苦痛となったときだ。苦痛がないなら、何か問題あるかい?」

・スーパーわんぱく

お祭り騒ぎのここ数日間だ、ブエノス・アイレスから数キロ離れた田舎にある家、録音スタジオが隣接するここで、アルゼンチンのロックグループ、ロス・ピオホス(しらみたち)に参加している。バミューダパンツにひらたいカスケット姿の46歳、スペール・チャンゴ(超わんぱく)と、アルゼンチンの日刊紙がマヌ・チャオに名づけたまさにそのままにして彼は子供のように夢中になっていた。ここにいるのは自分の部族、ピオホスのメンバーたち、ラディオ・ ルーツのメンバーたち、バルセロナのストリートで出会ったアルゼンチンのミュージシャンたち、そしてコリファトスが12人ほど。

唄う者もいれば、詩を引用する者、その場で講演を始めだす者もいる。「アサド」(南米の肉のロースト)、伝統的な肉のグリルの後では、チームに分かれてベイビーフット(台についた棒で操作するサッカーゲーム)で仕事前のプレイだ。裸足で花柄ショーツのコリファトの1人、ユゴーは、怖じ気づきだした。彼はマイクという習慣がないのだ。

彼の脇に座ってマヌ・チャオは彼を元気づける。「オレは意地悪で、残酷で、エゴイストで、偏見に満ちていて、すべてを握っている。銀行も、石油も、水道も、戦争も起こす、人類なんて滅ぼして、たったひとりこの惑星の主人となりたいのだ、オレが神なのだ!」ユゴーがぜえぜえと息を切らせる。彼がこの、 ジョージ・ブッシュに捧げられた歌の作詞者だ。少し離れたところでは、エデュアルド、ビートと呼ばれ、にかっと笑うと歯が欠けている、彼が自分の番を待っている。「マヌは兄弟のようだ。俺らは離れて暮らしているのだが、けれども彼のお陰で自分たちを大事な者として感じることができる。だからさ死なせてなるもんかと決めたのさ。」

コリファタのメンバーとともに、マヌ・チャオはマリのグループ、アマドゥ・エ・マリアムとしたのと同じように仕事をした。そのアルバムをプロデュースし、彼らの歌やラジオのクロニークを録音しまた音楽を追加した。「コリファトスは、自分自身による収入源が必要だったんだ。僕は助手役はいやなんだけど、彼らにお金が入ってくるディスクならさ。」

ブエノスアイレスでは、マヌ・チャオはコンサートを行わなかった。ファンたちはクチコミでボルダの庭で夜更けまで彼を聴くことが出来る場所を知ることができた。あるいはプレス・コンフェレンスの間、自分の最新作「ラ・ラディオリーナ」について語っていた。その歌の一つ、「ラ・ビダ・トンボラ」は、アルゼンチン人を魅了したディエゴ・マラドーナだ。マヌ・チャオは2年前、エミール・クリストリッツァの助けで彼に会っている。

このセルビア出身の映像作家は、彼をナポリに招待した。そこで彼は、アルゼンチン人のアンファン・テリブル(恐るべき子供)たるフットボーラーのためのフィルムの一部分を回していた。彼こそマヌ・チャオが歌を捧げたその人だ。そこから、クリストリッツァが「レイニン・イン・パラダイス」のクリップを制作し、そこでラ・コリファタのメンバーに出会ったのだ。

現代というものが、常にこのミュージシャンの話すことのなかに存在している。「ラテンアメリカには希望がない、ヨーロッパにないのと同じように。」彼はそう評価する。彼は嘆く、「ヨーロッパ人たちは、ますます保守的になっていくんじゃないか。」ベネズエラで起こっていることには強く印象を受けたという、「若い子たちと話ししてると、何かが動いているニオイがしてくるよ。」

彼はヨーロッパのメディアを厳しく批判する。「ウゴ・チャベスをメディアにさらし、ベネズエラ大統領のポピュリズムを語る。だが、この国でほんとうに起こっていることには完全沈黙。これは情報じゃない、操作だ。」

マヌ・チャオはアルゼンチンには10月と11月に戻ってくることを考えている。ラ・コリファタのアルバムのプロモーションのためだ。それを待つ間、フランスのステージに戻るともアナウンスしている。彼が必要だと考えて戻ってくる、長い不在のあとで。「特に今、この政府だからこそ」と、彼は指摘する。 「事態はひどく緊迫している、若者にはもう未来が見えていない。これはラテンアメリカと同じたぐいの暴力ではないけれど、底知れぬ怒りの爆発なんだ。」

by クリスティーヌ・ルグラン
http://manuchao.jp/dossier/spip.php?article33