見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの、見つけたとき、 それを作品にしたり、思わずなにかの形にして、人に 伝えたくなります。 見つけたとき感じた、しあわせ感覚が、ひとしずくでも 誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

July 19, 2013

ガールズ・ライク・アス



「ラフディスコ」と「+B=C」2曲試聴できます↓
http://www.discogs.com/Math%C3%A9matiques-Modernes-Disco-Rough/master/23678

ガールズ・ライク・アス GLUmagazine(GLU #6 FALL 2007)より

◇エドヴィジュ・ベルモア

エドヴィジュは、とりわけ、とてもグラマラスなレズビアンでカルトの象徴であるのを除いては、元女優、元モデル、元歌手、元ジャンキー、熱心なヒンズー教ファン、フラワーアレンジャー、並外れた装飾スタイリストと、たくさんの職業にうんざりしている。70年代後半、フランスから追放されて以来、彼女はニューヨーカーだ。私は、Smirnoff Vodkaのイベントの装飾品を作るためアムステルダムにいた彼女に話を聞いた。イベントが開催されるホテルオークラのカクテルラウンジに私たちは客として同席した。シャンペンをちびちび飲みながら、彼女は最高にすばらしい伝説的な身の上ばなしを私に語ってくれた。そして短い引用ごとに、正装する女の子や飾らない女の子について語った… まさに半世紀のはなやかなりし時代!

私はちょうど50歳になったところでまったく厄介。もうそんなにお酒を飲みたくない、だって生まれてからこのかたずっとお酒を飲んできているし、ドラッグをやってきたから。70年代にはさんざん打ちのめされてオーケーだった。ヘロインをやって歌うニコを見た。ステージで眠り込んだり陶酔したり。マリアンヌ・フェイスフルがステージをめちゃくちゃにするのを見た。私はステージをめちゃくちゃにされた。時には話すことすらできなかった。そしていまは、ひどいし見苦しいと思う。パンクロックバンドのシド・ヴィシャスならオーケー、でも、ニコやマリアンヌはもっと世慣れていたと思う。若いとき、ちょっとばかりとんがっているのはオーケー、でもある特定の時… そうね、もっとましになりたい、それが私のゴール。

(中略)

もっと教えて!

私は19歳くらいで、パティ・ハンセンに出会った。彼女はそれはもうすごいスーパーモデルで私はシャイな新進気鋭のパンクロッカーだった。私たちは恋に落ちて、私の人生でとても重大な6カ月だった。彼女が私のガールフレンドか何かだったと言うつもりはないが、その短い期間の関係は、避けられない成り行きに私の目を開かせてくれたせいできわめて重要だった。彼女は、25年あまりの間、運よくキース・リチャーズと結婚してて、二人の娘がいる。ねえ、ルル・デ・ラ・ファレーズは、私の全人生で最もほれていた人たちのひとりよね。でも、彼女はレズビアンではなかったと説明しなくちゃならない、その時の私にはわからなかった。彼女は、その才能とハートと人々と一緒にいられる能力で、完全に私を舞い上がらせた大した人。ねえ、私は彼女のようになりたかったの。今でも、彼女のことを考えると私は「大変!なんてすてきな人なの!」と言っている。

そして、あなたの友人Maripolはどうしたの?

ああ、Maripol!彼女は私の妹!80年代にはポラロイドで人々を撮ってたものだった、今もこういったデザインの作品を本にしている。彼女はいわばアートのキューレーターで、この驚くべきアニエスべーとの80年代の回顧展を、パリ、東京、ニューヨーク、ロサンジェルス、香港でやったばかり。彼女はまた、まあ一種のカルト映画になった「ダウンタウン81」という80年代の映画をプロデュースしている。

彼女はフィオルッチのデザイナーでしたよね?

実はフィオルッチのデザイナーというのではなかった、ニューヨークのストリートで彼女が見つけるとジュエリーになっちゃうゴミから彼女自身のちっちゃなアクセサリーコレクションをデザインした。

彼女はマドンナの外観(装い)の原因だった…かどうか?

ええ、彼女はマドンナの「ライク・ア・ヴァージン」の装いをデザインした。ねえ、彼女はとてもクールでしょ。彼女は私の世代で、18歳ぐらいの美しい息子がいて、マドンナが名付け親なの、私はもうひとりの名付け親。彼女は私にとって妹のようなもの、思うに常に私の人生の中にいる大した人なのよ。

マドンナを知っているんですか?

ええ、私たちは同じニューヨークのシーンにいたから、私は初期の頃にマドンナを知ったの。

マドンナとつきあっていたことがあるんですか?

私たちはつきあっていた。まさかと思うでしょうが本当に、まあ一種のおとぎ話のようなありえない関係ね…

本当に?

私たちは1983年くらいにニューヨークで出会った。私はある日本人の友だちが所有するヴィンテージものの小さな店を取り仕切っていて、その店に彼女が来たの。私はビリー・ホリデーのカセットを流していて、それはまるで「一瞬」だった。バックでビリー・ホリデーが歌っている、まだその歌を憶えてる、そうすると、「ハロー、この靴はいくら?」って声がしたの。頭はとちるし、ハートは床に落ちる。私はパニックになった。まさに、まったくばかみたいに私は恋に落ちた。彼女のほうも、どちらかというと、このまったくロマンチックな19世紀の状態で恋に落ちたと思う。私は「あの人はいったい誰?あの人をどうしたら私の人生の中にゲットできる?」と言っている。

その後どうなったんですか?

彼女はダンステリアで彼女のバンド「プライド」と一緒にコンサートをやるんでニューヨークにいたの。ダンステリアで私はバーテンダーをして働いていた。私の良き友人、ロンダがそこのマネージャーで、たまたまSadeの親友のひとりでもあったの。店に入ってきた後、Sadeは通りの向かいのコーヒーショップに彼女のバンドとロンダに会いに戻っていった。そうして15分後に店にみんなを連れて戻ってきた。彼女は「ハーイ、戻るって言ったでしょ」と言って。私はそれは興奮した。それから私の友人ロンダが、「こちらはダンステリアで働くエドヴィジュよ」と教えた。そしてその瞬間から、私たちは毎日親しく過ごした…

つまり、人が人を導く?

ええ、そして私たちはとてもロマンチックなつきあいをした。このような成り行きは私には話しにくい。ねえ、ゴシップにさせるわけにはいかないじゃない、それが現実。そして光陰矢のごとしで、いまは違う人生。でもね、私たちにはサイコーにスウィートな刺青があった。

あの歌はあなたのために書いたのですか?

ノーコメント。でもね、女の子とつきあうのは、常にレズビアン行為というわけではないのよ。彼女はボーイフレンドとも恋に落ちていた。私も彼が大好きだった。

(中略)

パティ・ハンセンについてもう少し教えてください...

当時、パティはすごいスーパーモデルだった。ヘルムート・ニュートンが撮影した彼女がヴォーグの表紙を飾った。彼女と私の出会い、ヘルムートと私の出会い... 私たちはお互いに恋に落ちたばかりで、すぐに関係があった。パティと私は、性衝動をどんどん試していて恋人同士になった。またヘルムートとの長年にわたるつきあいは、写真撮影を通じて繁盛した。80年代後半に私がまだヘルムートと一緒に写真を撮っていたってこと。私のヘルムート・ニュートンとの最初の写真は1976年で私は19歳だった。ルル・デ・ラ・ファレーズとイヴ・サンローランとのつながりも同じだった。パティとルルは、まったく隠し立てしないストレート(ゲイでなくまとも)の女性だった… 二人はストレートというのではなかった。ゲイ・レズビアン意識ではなくて、むしろびっくりするような誰かや、あなたの旅を一緒に共有したい誰かを発見する人間の感覚。私はかつて、パリのクラブのバスルームでグレース・ジョーンズと6回セックスしたけど、それはまったく肉欲にとらわれ、ワイルドだった。それはすごくて、何年ものあいだずっと私たちはうまく友人のままでいた、あの時代のなつかしい思い出と共に、ハハ。

アンディ・ウォーホルと知り合うのはどんなでしたか?

それはすてきな昔話。彼はこのギャラリーで展覧会を行うため76年か77年にパリにいた。だから、ピエール・エ・ジルや私たちのシーンのちょっとしたアーティスト・ミュージシャンの誰もがオープニングに行った、もちろん理由はタダのワインや食べ物… そして私はルーツを見せるため、ブリーチしたブロンドのクルーカット、大きな赤い唇の大きな丸顔という外観!私は実際に若くてさほどめちゃくちゃでないイーディ・セジウィックのようだった。私は自分の写真を撮りにプリクラに行くとその写真に「アンディへ、愛を込めて Edwige」とサインした。アートのオープニングで彼は、Tシャツ、紙、写真、吸い殻、背中、腕、手や額にサインするためテーブルに座っていた... 私の番になると、彼は私を見て、突然、目を大きく開くと「ハーイ、元気?あなたの名前は?」と言った。それで「私の名前はEdwige」と言った。そして「これをあなたにあげたいんです」と言って私の写真を手渡した。サインは欲しくなかった。すると、彼は「そう、ありがとう」と言った。そして私は立ち去った。その後、私たちは雑誌「ファサード」の表紙の写真をやって、その写真の彼は私の写真のボタンを身につけていた。

それはとても面白いですね。 つまり彼はあなたの写真でボタンを作った?

あの写真で誰かがボタンを作った、彼かどうかはわからない。彼はしょっちゅうそれを付けようとしていた…

(中略)

あなたの音楽キャリアはどうなりましたか? パリのあなたのノーウェーブ・ポストパンクバンド、Mathématiques Modernesについては知っています。

ええ、でも、ニューヨークに移ったとき、少なくとも私には世界最高のミュージシャンであるロバート・アーロンに出会った。彼はデイヴィッド・ボウイやポール・サイモンのツアーミュージシャンで、ステージで主にサックスとフルートを演奏した。彼はまた自分のバンドも持っていた。ある日、彼はピアノで「Smoke Gets in Your Eyes」を演奏しだして、私が一緒に歌い始めた。彼が私の声を賛美してくれて、私たちは一緒にやることになってしまい、私はキャバレーの歌手になった。私たちはニューヨークのクラブからクラブへと進んだ。私は「ビートカクテルラウンジ」というクラブまで始めたので、私たちはそこでたくさん演奏した。

たった今、どんな音楽を聞いていますか?

お気に入りのブラジルの古典、ニーナ・シモンと、幾つか古いお気に入りに加えて、私があこがれるコルダー(Colder)というフランスのバンド、神に感謝するわ、私にはすばらしいDJの友人たちがいて、古いのはもちろん新しいのを送ってくれる。ほとんど誰が誰だかまったくわからないで聴いているけど、ほんとに大好きなヨーロッパのラウンジミュージックがたくさんある。私はすっごくエイミー・ワインハウスにあこがれるの。彼女は顔に平手打ちみたいなもので、パンクなビリー・ホリデー、本当にクール。Atour de Lucieのような本当に大好きなバラード風フレンチバンドもたくさんある。CSSというブラジルのバンドも。あらゆる異なるジャンルから新しい同胞を経験するのが私は好き。私の人生はいつだってそんなふう。テクノだけは一度も気持ちがぴったりあったことがない。私には冷たすぎて速すぎる。私は音楽をまあいわばドラッグと比較する。スピードよりも、ふさぎこんで、強度で張り詰めたヤクのほうが好き。うんざり感じるのが好き。そしてそれはいつでも苦痛を与えない。この種の音楽もまた、あなたを、花、ガーデン、なんであれ、アレンジするここちよい軽い気分にさせる。

それで今のあなたの野望はなんですか?フラワーデコレーターで忙しいってことですね。それを続けるつもりですか?それともなにか他にしたい?

当座は、ガールフレンドと一緒に仕事をしていて、指定の衣装係として彼女を手伝っている。彼女は、TV番組、コマーシャル、ミュージックビデオのセットをデザインする驚くべきプロダクションデザイナー。でも私の人生は本当にすべて尽くされて消耗してきてるでしょ。どの瞬間も好きだったけど、今は本当に疲れている。ただの主婦でありたい。確かにそうよ、私のガールフレンドは私より10歳若くてキャリアは急成長している。私はただ家にいてビジネスをオーガナイズすることもできた。私は書くことが大好き。実際、私の伝記を喜んで書くわ。

あなたにはビアンカ・ジャガーとセックスするといった、とっておきのスタジオ54の逸話があると、Bettina Köster が私に話しましたよ?

彼女とはセックスしていません、キスしただけ。でも当時はたくさんの人とセックスした。私は、無差別にやたらと関係した。

あなたの人生は本当に本かもしれませんね…

そうなの。 そして、私が持ち出していないもっと多くのことがある…

http://www.glumagazine.com/v1/edwige_belmore

下の写真はインタビュー当時(2007年)のものだから、50歳になったエドヴィジュか
2011年カンヌ国際映画祭で監督と共にインタヴューを受けているYouTubeの映像があり、そこのエドヴィジュもこんな感じ



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