見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2021/11/12

スーツ姿のカブール市長

 


画像はカブール空港のCIA極秘ゲート

タリバンもその存在に気づかないほど極秘にされたアフガン人脱出路だった


◇カブールでは元アメリカ市民がタリバン監視下で街を運営し続けている


カブールの市長をそのままにしておくというタリバンの決定はいま大都市を統治することで地方の反乱行為が直面する課題を示している

ウォールストリート・ジャーナル Sept. 22, 2021


2001年9月11日同時多発テロで殺害された同僚のユナイテッド航空のパイロットの葬儀に出席したあと、ダウド・スルタンゾイ(Daoud Sultanzoy)は故郷のアフガニスタンに戻り、タリバン後の政府を築き上げる手助けをする決断を下した。このごろは、このカブール市長66歳はタリバンが8月15日に政権に復帰した後も職務を続けていることで陥落したアフガン共和国で最も著名な役人である。


毎朝、市当局の制服を着た警備員に敬礼されるスルタンゾイ氏は、今はタリバンの高官と共有する同じ広々とした執務室への階段を駆け上がる。


「わたしは彼らのどのような政策にも関与してないが、カブールの人々に対して責任があるのでここにいる、そしてわたしはそれに固執する決断を下した」とスルタンゾイ氏は言い、市当局のスタッフが彼に署名する書類を手渡すとデスクに座った。「これは、この人たちが好きではないという理由だけで軽率に投げ出すことのできない責任です。」


アフガン共和国崩壊の翌日、数千人の死にものぐるいの旧政府のメンバーがアメリカが管理する空港経由でなんとか脱出しようとしたとき、タリバンは彼の安全を保証していると伝えるためにスルタンゾイ氏に連絡を取った。


彼の執務への復帰は、ゴミの収集や下水ごみ処理など、首都の死活にかかわるきわめて重大な公共事業が中断されないことを保証した。残忍な地方の反乱行為から、アフガン人の8人にひとりが居を構えるカブールのような近代的都市を支配でき、4000万人の国を管理できる政府に移行しようとするタリバンの試みはもちろん、市長の普通でないあぶない立場はアフガニスタンの移行期の複雑さをあらわにする。


スルタンゾイ氏の執務室を共有するタリバンの新しいカブール暫定行政官(管理者)ハミドゥラ・ノマニ(Hamidullah Nomani)は2001年のアメリカの侵略前にアフガンの首都の市長を務め、またタリバン政権の閣僚も務めていた。


タリバンの支配権取得以降、ほとんどすべての自治体職員が伝統的なアフガンの服に変えているが、スルタンゾイ氏は頑固にスーツを着続けている。現在スーツを着る唯一のアフガン職員だと彼はからかう。


スルタンゾイ氏はマイアミ大学で航空機の操縦を学ぶため、1970年代にまずアメリカに来た。そのときはアフガニスタンのアリアナ国営航空会社がパンナムの関連会社だった、そして彼はのちにアメリカ市民になる。アフガニスタンの政治上の未来を計画した2001年のボン会議に参加した後、彼は新しいアフガン議会で現在は南東部ガズニー州の一部である家族の行政区を代表するために国に戻った。


彼はアフガニスタンの2014年の大統領選に出馬するためアメリカのパスポートをあきらめたが、有権者の0.46%の票しか得られなかった。彼の市民権についてスルタンゾイ氏は、「断念して捨てたのではなく、棄て去られた」と言う。「アメリカはわたしにとって心地よかった、そしてわたしはなにも放棄していない。」2020年、選挙の勝者であるアシュラフ・ガニ大統領は彼をカブール市長に任命した。


スルタンゾイ氏の成人の子どもたちと1972年にミス・アフガニスタンに選ばれたTV司会者の妻はみなアメリカ市民で、毎日WhatsAppのメッセージを通じてアメリカから彼と連絡を取り合っている。「もちろん、彼らは心配しています」と彼は言う。「でも、わたしが逃げないという決定について非常に支えとなってくれている。」


8月15日にガニ氏が首都を放棄してタリバンが抵抗なく街のなかに入ったあと、10万人以上のアフガン人が国を逃れた。その多くはカブールの教養のあるエリート構成員だ。先月の避難(撤退)便に飛び乗るために他の何万人もの人々がアメリカが管理する空港に乗り込もうとして失敗した。


市街戦の荒廃を免れたカブールは、相変わらず交通渋滞する通りとオープンレストラン、ショッピングモール、農産物であふれる市場のゆえに機能する活気にあふれる都市のままである。


これは1996年にタリバンが引き継いだカブールとは大違いだ。ライバルのムジャヒディーン徒党間の何年にもわたる大砲の応酬と市街戦のあと、都市は瓦礫に帰した。「人間の肉を食べていた犬が通りを歩きまわっていました」とスルタンゾイ氏は言う。「タリバンは存在しない都市にやってきた。今回、彼らは存在する都市にやってきた。」


当時、わたしたちは荒れ地を相続した。今、わたしたちは再建され、人口が増えたカブールを引き渡された―タリバン指導部上級構成員、ハミドゥラ・ノマニ(Hamidullah Nomani)


タリバンが任命したカブールの暫定的行政官、ノマニ氏が同意する。「あの時のカブールと今のカブールの違いは天と地のようなもの」と彼は言う。


この国の新しい主君にはスルタンゾイ氏のようなプロのスキルが必要だとノマニ氏は付け加える。「わたしたちは政治的な問題を考慮していない」と彼は述べる。


タリバンの旗は、かつてアフガニスタンの対外作戦本部の中心だったカブールのグリーン・ゾーンにあるアメリカ大使館の壁を覆っている。ウォール・ストリート・ジャーナルのYaroslav Trofimovは外国の外交官が戻ってくることを期待して現在タリバン戦闘員によって監視される放棄された大使館を訪問する。


「市長、副市長、他の指揮者を含め、正直に奉仕し、すぐれた実績のある人は誰でもすべてわたしたちの友人です。わたしたちはこの立場になにも変化を提議していません」とノマニ氏は付け加える。


「ここへの到達は進行中の業務を止めようと意図していませんでした。業務がスムーズに進む限り、わたしたちは一緒に働きこの友情を維持します。」


スルタンゾイ氏によると、カブール市当局の8000人の労働者の3分の2ぐらいが再び働いている。その全員が男性である。スタッフの5%を占める女性は家にいるようタリバンに言われた。最初はガニ氏の政府が支払いを延期するため、そして今は新しいタリバン政権が経済的危機に直面するせいでスルタンゾイ氏を含む誰もが過去3ヶ月間給料を受け取っていなかった。


アメリカと同盟国は先月、アフガニスタンの中央銀行の準備金に関して約90億ドルを凍結し、大部分の支援と国際的な貸主へのアクセスを停止して、アフガンの銀行の取り付けを刺激した。国の金融システムが行き詰まった、つまり、現在、カブールではまったく地方税を払わないという意味だ。


市がまだ2億ドルの予算を費やすことができた時、彼が取り組んでいたプロジェクトをスルタンゾイ氏は残念そうに列挙する。カブールの歩道を地元の透過性の石と交換する、グリーンエネルギー・イニシアチブ、見苦しいアンテナで外観を損ねた首都のTVヒルの山とやらを美しくする、新しい利益の上がる10の回廊、財源徴税のデジタル化。


しかしながら、許可証の発行や雇用に加えて、これらすべてのイニシアチブが8月中旬に停止した。スタッフに昼食を提供するケータリングに支払う金がないため、ほとんどの市の従業員はその日の午後に帰宅する。


「わたしたちはすべてを再検討して新しい政治指導者がなにをするか見なければならない段階にあるので、現在これらの計画のどれも先へ進んでいません」とスルタンゾイ氏は言う。


「これらの計画がどうなるかわたしにはわかりません」と彼は付け加える。「ここに長くいるとは思っていません。」


https://www.wsj.com/articles/in-kabul-a-former-american-citizen-keeps-running-the-city-under-taliban-watch-11632303000?st=yrmvzwbik3xzkp0&reflink=share_mobilewebshare



△イスラエルのNGOが9月以降、イスラム主義組織タリバンが実権を握ったアフガニスタンから秘密裏に女性ら計160人超をアラブ首長国連邦(UAE)など国外に退避させることに成功した。イスラエル人慈善家らと連携して実現したもので、「手に汗握る退避」(英紙デーリー・テレグラフ)などとイスラエル内外で話題となっている。


イスラエルの人道支援NGO「イスラエイド」が今月13日に発表した声明などによると、9月6日、アフガンの女子生徒や女子自転車選手ら42人をタジキスタン経由でUAEに退避させた。今月2日には同様の作戦により、裁判官や人権活動家、外交官ら125人がアルバニアに到着した。いずれも「タリバン政権下で特に抑圧が懸念される人々」で、大半が女性。最終的にはカナダやフランス、スイスといった国々に再定住する見通しだという。


アフガン国境地帯などで一連の作戦に携わったイスラエイド代表のヨタム・ポリツェルさん(38)によると、世界各地で人道支援活動を行ってきたポリツェルさんに1回目の退避グループのアフガン人らと関係を持つ知人から救出依頼があったのがきっかけ。首脳や有名実業家を含むさまざまな人のつてを頼って最初の作戦を成功させると、うわさを聞いたほかの人々からも依頼が殺到したという。


ポリツェルさんは取材に対し、2回目の退避グループが国境近くでタリバンに一時拘束された時の交渉が一番大変だったと明かした。一行には民主政権時代の外交官や裁判官も含まれていたため、「もし身元が分かればタリバンに殺害されかねない」と恐怖を感じたという。何とか苦境を切り抜け、「退避できたのは奇跡だ」と振り返った。


作戦成功の一因には昨年8月にイスラエルとUAEが国交正常化で合意したこともある。ポリツェルさんは「UAEにとっては、今回の作戦を通じてイスラエルとの連携を示すことが重要だったようだ」と指摘した。


https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102400125&g=int