キューバのマンゴーは甘いだけじゃない
キューバ食品輸入卸業を営む浜田昭雄さん62歳のニュースに目がとまる。
「キューバのマンゴーは甘いだけじゃなく、適度に酸味がある。アメリカの経済封鎖の影響で、市場化に遅れた"たまもの"なんです。」
浜田さんがキューバに関心を持ったきっかけは、半世紀近く前、中学生の秋だった。千葉市にある母校は文部省(現文部科学省)の実験校で、昼休みに校内放送でラジオ番組を流していた。キューバ革命のニュースを聞き、「アメリカにつぶされるんじゃないか」と話す同級生に「いや、キューバは消えない」。確信のないまま答えていた。
慶応大経済学部で学び、黒木和雄監督の「キューバの恋人」上映会を開いたこともある。在学中の1967年、労働組合中央組織の総評に就職。結局、大学は中退し、高度成長期に中小企業の組織化にかかわった。
40代のとき持病のぜんそくが悪化、ステロイドが効かないほど重症だった。1カ月の入院と1年間の自宅療養を余儀なくされ、退職した。「妻と3人の子どもを養える稼ぎではなかった。共働きでなかったら、やっていけなかった。」
人生の窮地を救ったのはキューバへの強い思い入れだった。91年、46歳で出版社「海風書房」を設立。出版した27冊のうち、8冊はキューバ革命の英雄チェ・ゲバラの伝記の翻訳書などキューバ関連もの。
当時、旧ソ連崩壊の影響で、同国に頼っていたキューバ経済が行き詰まっていた。そうしたなか、「現実的な支援に取り組もう」と浜田さんが93年に設立したのが、東京・東日本橋の食品輸入卸会社「アッシュ・クワトロ」だった。現地法人を設け、キューバから輸出できる唯一の日本企業とか。
社会資本の整備が進んでいない現地のため、常に「取引ではなく投資」を心がける。その気持ちは、サトウキビの製糖頼りの農業から他の生産品に移行するキューバの流れにも乗った。約5500ヘクタールの有機農園整備を支援し、グァバやマンゴーなどを栽培する。宅配生協のパルシステムと「国際産直」も進める。
ドライマンゴーの現地工場は、働く場を確保するため機械化を抑え、皮むきからスライスまで手作業で行う。わずか20人とはいえ、人口2000人の村にとって貴重な就職先だ。
こうしてできたドライマンゴーは4年越しの製品。2008年、キューバにとって革命50年にあたる節目の年に日本の店頭に並ぶ予定。「甘味と酸味がほどよく歯ごたえがある。本当なら2年前に発売できていた商品。現地はラテン時間で進むから…」と苦笑い。
取引量では商社にかなわない。利益はこれからだが、商品の質と心意気では負けないそうだ。
写真は、17日、ブラジル・サンパウロのコンゴニャス国際空港で起きた事故で、旅客機が衝突し炎上する建物(ロイター=共同)
TAM航空の国内線旅客機が着陸に失敗、建物に激突して炎上した事故で、事故機の機長が着陸中止を試みていたことが、これまでの調査で明らかになった。同空港は主に国内線用で、サンパウロの市街地に近い。
現地メディアによると、旅客機は数回の爆発とともに激しく炎上。乗員乗客176人の生存は絶望視されている。建物でも死傷者が出ており、救助隊責任者は「死者は200人にのぼりそうだ」と述べた。
また、5月に滑走路のアスファルト舗装を一新して以来、滑りやすくなっていたとのパイロットの証言を報じており、16日にもスリップした小型旅客機が滑走路を外れて止まる事故があったという。当時は激しい雨だった。
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