見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2007/07/17

アメリカ発「自由の戦士」プロパガンダ


アメリカの物差しでものごとを量るのはもうやめだ。ブッシュ一団の無法ぶりがあまりにも露骨かつ大胆不敵なせいで、これまで曖昧だったものがはっきり見透かせるようになったのはある意味いいことでもある。

隊列を組んだ警官隊の前でピースマークをかざしてひざまづき、表現の自由と弾圧からの解放を訴える学生たちは天安門広場や東欧の若者を連想させる「自由の戦士」のイメージだ。彼らはマスクと投石とで催涙ガスに立ち向かう一方、警官に白いカーネーションを手渡したりもする。
ベネズエラではいったい誰が本当の「自由の戦士」なのだろう?
以下、2007年6月7日のクリス・カールソンの記事より抜粋
(Venezuelanalysis.com)
この2週間、カラカスの通りを歩き、街頭での論議に耳を傾け、反政府派と親政府派と両方のデモ行進に参加して、民主主義とは何ぞや、暴政とは何ぞや、そして特に表現の自由の表れ方について双方の意見や根拠、信条を聞くことにより、ベネズエラの学生反対運動と親チャベス派集団を区別するのが何なのかを私は理解するにいたった。結論はこうだ、最近ベネズエラに出現する学生「自由の戦士」たちの民主主義や暴政、自由そのものについての認識には欠けてることがたくさんあるということ。それよりもっと興味深いのは、ベネズエラでは反政府派の学生やら記者らが自由の戦士なのでなく、むしろ主流メディアと国際メディアによって完全に黙殺されてきた、もうひとつの、より大規模な政治活動家の集団が自由の戦士だということ。
こういったすべてが、チャベス政権が民放テレビ局 RCTV(ラジオ・カラカス・テレビ)の使用期限20年の放送免許の更新を拒否して公共電波放送から追い出した5月に噴き出したようなのだ。カラカスのデモ行進で一番叫ばれたスローガンのひとつ「自由、自由」は RCTV を自由の象徴に変えていた。もうひとつのスローガンはRCTV を「民衆の声」だと断言するものだった。
だが、RCTV は本当に表現の自由や民衆の声を代表していただろうか?より適切に言えば、民間の企業メディアは表現の自由を代表するものだろうか?
世界の企業メディアのほぼすべてが、RCTV同様、巨大な国内および多国籍企業によって所有されている。RCTVは1920年代に米国の実業家によって創設された。長いあいだその一族はベネズエラの一流エリートのひとつであり続けた。今でも一族は過半数の株を支配しており、依然として数々の巨大多国籍複合企業に広告を売ることでその収益のほとんどを得てきている。
したがって、これら企業の経済的利益に反する見解は当然のことに伏せられるのに対し、エリート資本家らの経済的利益につながる見解は繰り返し支持される。たとえばCNN (タイム・ワーナー)を所有し出資する経済団体が、CNNの番組がその利益に損害を与える見解(例えば反グローバリゼーション運動やメディア複合企業の解体)を唱導するのを通例容認しないのと同様に、RCTV を所有し出資する経済集団は彼らの利益に反する見解を明らかに支持しない。そして資本主義vs.社会主義、民営化vs.国営化、新自由主義vs.保護貿易主義の大いなる戦いにおいて、すべての企業メディアは論争の同じ側についている。
反政府活動家らの見解のもうひとつの基本的問題は、資本主義に対する無批判的な立場と、それに対するほぼ全ての代替案に対する激しい憎悪である。「社会主義は破綻した!」「カストロ共産主義反対!」が、首都の街頭やらバスの中、地下鉄の駅での、学生、ジャーナリスト、カラカスの中産階級抗議者らのシュプレヒコールと叫びである。反対派集団にとって、共産主義や社会主義、他のいかなる資本主義に取って代わるものも単なる暴政の一形態であることは火を見るよりも明らかだ。
過去において共産主義や社会主義を築く試みの大部分が失敗してきたこと、多くの場合、残忍な専制政治の形態にいたったという彼らの主張は正しい。けれども、それは主流の政治観に基づいて教え込まれてきた物語のひとつの側面にすぎない。その物語のもう一方の側面は、資本主義も同じことを世界全域でもっと大規模に行ってきたということだ。資本主義がほとんど自明のこととして、権力の巨大な集中にいたり、最後には真の民主主義のいかなる見込みも妨げることになるのを、ベネズエラの反政府派は理解してないようだ。
資本主義的民主主義の政治制度は、市民によって民主的に統制されるのではなく、経済的エリートの支配下に入ることになり、自由民主主義という仮面をかぶった完全には認識できないある類の暴政を引き起こす。
とはいえ、RCTV の自由の戦士たちにとって、資本主義は自由と同等であり、そして資本主義に対する全ての代替案は暴政と同等なのである。カラカスのデモ参加者らが皮肉にも理解してないのは、彼ら自身が資本主義が必然的に引き起こすとらえがたいが破滅的な暴政そのものの犠牲者であるということ。そしてまた、その暴政を維持する上での、米国の帝国主義がになう役割も彼らは理解していない。
反政府派の活動家らがどうやら顧みていないのは、過去20年間に中南米全域を襲った貧困、犯罪、暴力の高まりが、主として米国政府ならびにRCTVや他の民間メディアを支配するエリート経済団体そのものによって助長された新自由主義政策と改革の結果であるということ。そして1989年にカルロス・アンドレス・ペレス大統領が軍を出動させ、新自由主義改革に抗議する何千人もの人々を虐殺した時、その民間メディアは表現の自由や自由あるいは民主主義に関して全く懸念などしていなかったことである。
RCTV のエラディオ・ラレス社長は、1989年の残忍な虐殺直後の生放送において、虐殺行為を「ベネズエラという名の非凡なチーム」の活動と称し、実際に賞賛した。

ベネズエラにおける学生抗議行動が米国政府のより大きな戦略の一部であることを示す十分な証拠がある。その戦略は望ましくない政権を転覆するため、過去数年間にセルビア(2000年)、グルジア(2003年)そしてウクライナ(2004年)といった他の国々で用いられてきた。とはいえ親チャベス派陣営の活動家らはすでにこのことを承知していた。活動家のひとりは「これらの学生抗議行動はすべて米国政府の計画の一端です」とそれがまるで常識であるかのように私に語った。
(長くなりましたので続きはメールマガジンにてお伝えします。)