見つけた 犬としあわせ

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2007/08/14

シェフは魚は作らない



それが特大におもしろくて
今週、デイヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」のDVDが発売になる。
ネーサン・リーがデジタルヴィデオや腐らせる体験やタピオカについて監督と雑談する。
by ネーサン・リー 06 August 2007

2006年の秋、デイヴィッド・リンチは「Catching the Big Fish:瞑想、意識、創造性」という本を出版した。「アイディアは魚のようなもの」と彼は始める、そして本は自然の生息地(無意識の心理)へと案内する;それを見つけるための最良の方法(TM:超越瞑想法);そしてそれを釣り上げるのに最も効果的な餌(欲望、直感)。

途中、リンチは、彼がうまく捕まえたいっそうエキゾチックなアイディアはもちろん、最も有名なレシピ(ツインピークス、ブルーベルベッド)の材料について話す(「必ずしも死体を腐らせるのが好きというのではないが、テクスチャーはすばらしい」)。「キューブリック」と「コモンセンス(常識)」に当てたチャプターの中間でクジラ(途方もない考え)が深い所から現れる。「私は媒体(手段)として映画を仕上げる」とリンチは断言する。「私にとって映画は死んでいる」

昨年封切られた「インランド・エンパイア」でリンチがこの断言を履行したか否かは、あなたの見方次第だ。映画はソニーPD-150で撮影された、グレードの低いデジタルヴィデオカメラは本格的な人を呼ぶ映画製作ではすたれたとみなされた。前作「マルホランド・ドライブ」のように、「インランド・エンパイア」は自分自身のもつれた迷路で道に迷う女性の話を語る。ひどいアイデンティティの危機に苦しむハリウッドの女優、ニッキー・グレースをローラ・ダンが演じる。その本質は、映画のわかりにくい(つかまえどころのない)夢のような形状をとって表される。だが、「マルホランド・ドライブ」のグラマラスな外観がハリウッドの過去(西部劇、ミュージカル、フィルムノワール)、ラフな感触(テクスチャー)、薄い色、映像面のあいまいな深みを表しているところと、「インランド・エンパイア」の構造の希薄性は、YouTubeにある壮大なナイトメアほども似ていなかった。

観客はリンチから予期せぬものを期待するが、多くの批評家がこの新しい方向性に肝を冷やした。彼らは35ミリシネマから消えるアートにとわられて、低賃貸のフィルムの代替えでなしにヴィデオとしての空間的そして質感の描出という可能性への博学な調査というのに加えて、「インランド・エンパイア」の法外な趣向の凝らしとヴィジュアルの濃さの真価を認めるのを怠った。「インランド・エンパイア」の手段を簡単に片付けることはメッセージを逃すことだ。「マルホランド・ドライブ」が自覚に関する映画の効果についての教訓話として理解されてもおかしくないように、「インランド・エンパイア」はポストシネマ精神の孤立と分裂、インターネットのマトリクスでの自己分裂について、訴える。そんな当然、まったく映画館にふさわしくないものとしては、最初の傑作映画かもしれない。

「デジタルはそういうことをうまくやり遂げる」ハリウッドヒルズの自宅から電話でリンチは言った。ポーランドでの「インランド・エンパイア」のプレミア上映からLAに戻った監督は、デジタルで映画を作ること、アンデスのヒエ状の実キノアを料理すること、「ものごと」の美について私に語った。

「フィルムでの伝統に忠実な撮影では、機材はとても大きくとても重いので大勢のクルーを必要とする」と彼は言う。撮影と撮影の合間のセットアップに長い時間がかかる、時にはとてつもなく長い。デジタルでは中断時間がものすごく少なくてすむ、時には一瞬ですむ。シーンに関係しているとどういうことになるか、そのシーンを壊してくれる事態が少なくなる。関係している、関係してるんだよ!」でも、「インランド・エンパイア」のせいで私たちが入り込んでいるのは正確には何なのか?今までのところリンチが提供している唯一の説明は「困っている女性」ってことだけだ。どういう類のトラブルか?リンチは応える、「困ってる女性に関するとだけしか言えない」それだけ?「それだけ。体験を腐らせるので言えない。ある事態を見る、そして全体として的を得ている(間違いがない)と感じるまでその事態が長いこと作用して興奮させる。それにまた事態は付加的な言葉なしに世に出なければならない。あれこれ言うのは監督にとってためにならない、それが実際に人の意見を変えたりしない。もっとはるかにおもしろいものを作り出すかもしれないだろ。」

「インランド・エンパイア」の意味についてコメントするリンチの寡黙さは2枚組DVDにまで拡大する。一枚のDVDには解説面なしの劇場で見せる映画が入っている。もう一枚は、「さらに起こった事態」という70分のコレクションを含める、ほぼ3時間の特別のおまけと呼びもので作られる。「インランド・エンパイア」の本体に組み込まれる、この付加的なマテリアルが全体の上映時間を4時間半超にまで押しやるが、主要な呼びものは別としてみなされるとリンチは主張する。「映画にははまらなくても大事にできるものがある」と彼は言う。「だが映画は独特な立場に固執することになる。独特の感じをつかむ、そしてそれをもてあそびたくはないよね。他は切り離されるべきだ。つまり映画は映画、他のことは映画に関係がある、でもあれは、さらに起こった事態だよ。」

そしてリンチが作った曲で踊る女性のエチュード「バレリーナ」についてはどうなんですか?「あれは別物、仕事だ、私にはとても美しいものなんだが。」それどころか「バレリーナ」はフィルムの美しさにヴィデオが拮抗できないと主張する人にとって決定的叱責を強めることになりかねない。煙のような放射物でおおわれた異なる2つのワンショットから合成されるダンサーの動きは、「ワイルドアットハート」の悪魔のようなクローズアップか、「イレイザーヘッド」の太陽系宇宙の奇癖と同様に催眠状態にある。「バレリーナ」は巨大なキャンバス「インランド・エンパイア」のための準備のスケッチ、アーティストが自分のテクニックをみがくトレース、として考察されるかもしれない。映画作家になる前、彼は画家だった。「リンチ2」という2枚目のDVDにある舞台裏のわかる場面のモンタージュで十分わかってもらえるように、リンチは演技または撮影技術にかたむけるのと同様に、彼の映画のプロダクションデザインやセットの装飾に全面的に注意をかたむける。「どうも私にはそれが喜びのように思える」と彼はディテールへの熟練工的な配慮について述べる。「スーパーファン、超たのしいってことだよ」

まず栄養のある穀物をベースにしたレシピを準備する映画作家から始めて、ストーリーの料理の仕方について手練手管でだますレッスンに変異する、「キノア」(アンデス山脈の植物のヒエ状の実、ペルーでは食用)のことなら、リンチは単にこう言及するのみだ:「ほら、料理番組があるだろ。でも私は料理をしない。タピオカの作り方は小さかったときから知っている。それにリガトニ(短くまがったマカロニ)、作り方を学んだからね。でもいまはキノアの作り方を知っている。それでいわば料理番組みたいなのをやった。」

「シェフは魚は作らない」とリンチは続ける。「シェフは魚を下ごしらえして、実に見事な料理をこしらえることができる、それは美しい料理をね。でも、シェフは魚は作らない。魚は通りを下りていくうちに考えがひらめくような、スリリングなことだよ、それは丸ごと全体、断片かもしれないが完璧な断片。つまり、さらにアイディアが引っかかるこのプロセスに入る、そしてさらにアイディアが浮かぶ、残りのすばやい魚が仲間に加わるようになる。そいつが餌のようになって、そのアイディアに背かないままでいる。そして直感が機能するところで、このアイディアを映画に翻訳してしまっているので、まったく適切でない。バイオリンの音を弾くように、もうちょっと厳しく学んでいれば、的を得たと感じる、そして少しばかり手をゆるめるようであれば、的を得たとは感じない。そしてこれを追跡するのであれば、アイディアに背かないままでいるなら、直感は君の友達だ。的を得たと感じるとき立ち去る。」

写真はデイヴィッド・リンチ監督と、映画「マルホランドドライブ」の女優たちと。