見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの、見つけたとき、 それを作品にしたり、思わずなにかの形にして、人に 伝えたくなります。 見つけたとき感じた、しあわせ感覚が、ひとしずくでも 誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

August 26, 2007

あばた顔のノリエガ元将軍


パナマのノリエガ元将軍もまた米国にひどい目にあわされた一国のトップのひとり。
いいように利用されて、ちょっと調子に乗ってアメリカの親分にたてつくと、フセインのように悪役にされて抹殺されるか、ノリエガのように悪役にされて獄中に投げ込まれ死んだも同然にする。
いや、久々にノリエガ将軍の名前を聞いたもので、ちょっとメランコリックな気分になりました。これまでいったい何人の一国のリーダーがこういう憂き目にあってきたものか、とね。アメリカという国は、さんざん仲良くしておいて、ひとたび邪魔となると、なんでもする国だということです。その結果、パナマの一般市民も多数殺されました。でもこれについてはまったく報道されていません、アメリカでもですが。事実を公表する報道写真が残ってないそうです。日本人の女性が貴重な写真を撮影しています。ネットで探してみてください。
今朝のニュースから:
◇麻薬取引などの罪で米国で禁固刑を受けているパナマの元最高実力者マヌエル・ノリエガ元将軍が仮釈放された後の扱いについて、米フロリダ州の連邦地裁は24日、帰国を要求する元将軍の申し立てを退ける判断を下した。このため、身柄移送を求めていたフランスへ引き渡される可能性が高まった。
ノリエガ元将軍は同州の刑務所を9月9日に仮釈放される予定で、弁護士は戦争捕虜としての扱いを求め、釈放後の即時帰国を要求していた。一方で、フランスではマネーロンダリングの罪で被告不在のまま禁固10年の有罪判決を受けており、同国が引き渡しを求めていた。
ノリエガ元将軍は89年の米軍によるパナマ侵攻後に投降し、連邦地裁で禁固40年の有罪判決を受けていたが、その後、刑期を短縮されていた。
(朝日新聞2007年8月25日)
以下はフリーのウィキペディアより、米国のパナマ侵攻:

◇パナマ侵攻は1989年にアメリカ合衆国が中米のパナマに軍事侵攻した事件。
マヌエル・ノリエガ将軍の軍事独裁化にあったパナマでは、麻薬交易の温床となっているとされており、非民主的な政治体制が中米各国の中でも孤立していた。
1989年1月に就任したブッシュ米大統領(ブッシュのオヤジ)は麻薬撲滅を掲げていたが、89年10月に発生したヒロルディ少佐ら軍の一部によるクーデターを支援せず、ヒロルディは鎮圧され失敗に終わった。しかし、12月20日になって米国は米軍2万4000人をパナマに侵攻させ、エンダラを大統領に就任させた。ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われたが、米軍によって首都パナマシティが占領され、翌1990年1月、ノリエガは米軍に投降した。
ノリエガはその後米国に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた(後に30年に減刑された)。また、パナマ国防軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊、海上保安隊及び航空保安隊で構成される)に再編された。
侵攻作戦は麻薬撲滅を掲げて行われたが、1999年に米国がパナマへ返還しなければならないパナマ運河に関する交渉を有利に進めるためのものとも考えられている。一部では、ブッシュ大統領がCIA長官時代にノリエガの中南米撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、自身の政治生命を守るために電撃的に発動したとされる。なお、麻薬撲滅という大義名分を掲げての侵攻だったにも関わらず、21世紀初頭のパナマの麻薬流通量はノリエガ時代の2倍に増えている。これはそれまで「国家」によって統制されていた麻薬の取引網が開放されたためと伝えられる。
この戦争において、アメリカは露骨な情報統制を行い、侵攻期間中の4大ネットワーク各局は、攻撃を受けたパナマ市民への取材はほとんど行わず、侵攻に賛同する裕福な白人住民層の意見を中心に放送した。また、米軍の被害、死傷者数は積極的に報道したが、パナマ軍・パナマ市民がどれほど被害を受けているかについては、米国内向けにはほとんど伝えられなかった。この情報戦略は2年後の湾岸戦争でも十分に発揮されることとなる。
以下はネットーサーフィンの成果からカットアップ:

◇1989年12月20日午前0時45分、武装ヘリ部隊がパナマ市内6カ所に対し爆撃を開始し、パナマに侵攻した。ブッシュ米政権は、パナマのノリエガ将軍を麻薬密輸の容疑で逮捕するというのが名目だった。
アメリカの兵力は、パナマに駐留していた南方軍、本土降下部隊など2万4500人、 20日未明にパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、パナマ市街では市街戦となって 3日間の戦闘でパナマ側は民間人を含めて400人〜2000人の死者出たという(4000人とも言われる)。
最大の攻撃目標は、パナマ国防軍本部だったが、隣接するエルチョリージョ地区も爆撃され、労働者街のサンミゲリート地区も焼け、民間人に多大な被害をもたらした。
これに対し、ハイテク兵器を駆使した米軍側の死者はわずか23人だった。
なお、パナマは1994年に軍隊を廃止し、警察力だけになっている。

◇パナマ侵攻の暗い影
国連総会でパナマへの軍事介入は非難された。アメリカは国際法を無視して侵攻した。
侵攻の意図は、パナマ運河を抱えるパナマの内政をコントロールするという歴史的思惑がらみのもので、内政干渉にあたる。
新兵器が実験目的で使用された可能性。ステルス戦闘爆撃機、アパッチヘリ、レーザー誘導ミサイルなどの度を越えた使用が指摘されている。
人口密集地区チョリージョがなぜ空爆されたのか。ノリエガ一派が隠れているという理由で焼かれたが、その結果、市民に多数の犠牲者が出ることになる。
パナマ側の死者は10年以上経ついまも公表されていない。
米軍はパナマのラジオ局、テレビ局を占拠し、パナマのジャーナリストを逮捕したため、侵攻時の映像が残っていない。

◇パナマ侵攻と日本
ノリエガ元将軍の回顧録において、彼は「米軍のパナマ進攻は日本の影響力拡大が引き金」だと話している。「米国人の凶暴さに対抗して資金力のある日本をパナマ運河に引き込むことで、アメリカをけん制」しようとした。そのため、パナマ運河の将来の管理が日本の支援でパナマの手に落ちるのを阻止することが狙いで、米軍は侵攻したというのだ。
当時、「第2パナマ運河計画」というのがあった。日本主導のこの第2パナマ運河計画に期待したノリエガ政権は、パナマ市内のオマール公園に当時の日本の首相、大平正芳の胸像を作った。また、パナマ市内の繁華街には「大平通り」もある。

◇1980年11月、大統領がカーターからレーガンに代わり米政権はパナマ運河返還反対に転換する。トリフォス将軍の乗る飛行機が墜落し死亡すると、CIAは後継者のノリエガ将軍を傀儡(かいらい)にパナマを再植民地化しようと試みるが、ノリエガはこの策に乗らず、独自の路線を歩んでいく。レーガン大統領はノリエガ逮捕とパナマ在住のアメリカ人保護の目的で1989年5月、海兵隊1800人を派遣。だが、ノリエガ将軍の逮捕には失敗する。
同年12月17日には新たに就任したブッシュ大統領がパナマへの大規模侵攻を決定。ノリエガ将軍の独裁政治に対して民主主義の確保、在留アメリカ人の保護、運河の安全確保、ノリエガ将軍の逮捕を目的とした。12月20日「オペレーション・ジャスト・コースト」が発動され500人のパナマ軍防衛隊に2万4000人のアメリカ軍精鋭部隊が殺到した。
パナマに基地を持ち軍事的にも優位な米軍は次々と目標を制圧。わずか1日で作戦のほとんどを達成する。だがこの作戦ではノリエガ将軍を逮捕できず、以後特殊部隊によるノリエガ将軍の捜索作戦が展開される。この作戦で初めて海兵隊の艦隊付対テロ部隊FASTが投入された。
この後も散発的な戦闘は続いたものの、24日にはノリエガ将軍がバチカン大使館へ亡命。翌年1月3日にアメリカ軍に投降した。パナマ運河の利権争いから麻薬問題など、アメリカ政府の策謀が巡ったこの作戦はノリエガ将軍の逮捕で幕を閉じたが、皮肉にもパナマからの麻薬流入はノリエガ将軍逮捕後2倍近くに倍増。この作戦の真意は不鮮明なものとなった。

写真は、米軍によるパナマ侵攻前の89年11月、パナマ市で取材に応じるノリエガ元将軍(AP) このあばた顔、いまはどうなっているんでしょう。

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