見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの、見つけたとき、 それを作品にしたり、思わずなにかの形にして、人に 伝えたくなります。 見つけたとき感じた、しあわせ感覚が、ひとしずくでも 誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

July 23, 2010

To Shooting an elephant



◇To Shooting an elephant:象の射殺

・概要

 「. . . のちに、言うまでもなく、象の射殺について果てしのない論議があった。像の飼い主は激怒したが、彼はただのインド人で何もできなかった。その上、私は合法的に正しいことを行ってきている、狂暴な象は、飼い主が抑えられなければ、狂犬のように息の根を止めないといけない。」

 「To Shooting an elephant」はガザ地区からの報告の目撃証人だ。2008年12月27日のキャストリード作戦、21日間の象の射殺。パレスチナの一般市民と一緒に、ガザ地区の救急車内に埋め込まれたままでいることに決めて処理する、唯一の外国勢からの不眠の差し迫った映像、卑劣で、ぞっとさせる映像である。
(ジョージ・オーウェルの「Shooting an elephant」は元々、1948年New Writing にて出版される。)


・背景

ガザ地区は、イスラエルが「敵なる存在」と公言した2007年6月以来、包囲下に置かれる。国際的な活動家グループが包囲を破る運動、”フリーガザ運動”を組織した。彼らの尽力のおかげで、現場でキャストリード作戦を報道して目撃する外国人記者と人道支援活動家へのイスラエルの禁止(追放)にもかかわらず、国際的な志願者グループ、”国際連帯運動(International Solidarity Movemen)”の自ら組織したメンバーたちが爆撃が始まった2009年12月27日にガザにいた。アルジャジーラ・インターナショナルの2人の国際通信員(Ayman MohyeldiとSherine Tadros)と共に、包囲されるパレスチナの細長い土地の内部でなにが起こっていたか、いくつかのラジオ局のためにどうにかして記録し、撮影して、報告する、彼らは唯一の外国勢だった。

彼らはジャーナリストだった?彼らは活動家だった?だれが気にする!彼らは目撃者になった。ジャーナリストも、あなたがどう感じるか次第の者もみな。あなたがどうにかしてより広範の視聴者にあなたとあなたの周囲にいる人たちが経験することを共有させることは道義にかなう責任だ。ジャーナリストであってもなくても、もっと正確に言えば想定以前、呼び名以前の、それはあなたをプロの職業に至らせるあなたの腕前に係るものだ。

視聴者に知らせる。あなたが聞いて知ってもらいたい人々にあなたが気づいたことを聞かせて知らしめる。すなわちジャーナリストだ。 プレス(報道機関)と書かれた名刺を持っているのも、本俸をもらうのも、カメラまたはペンを使って目撃者であることに必要不可欠ではない。中立性は無視しろ。客観性は無視しろ。私たちはパレスチナ人ではない。私たちはイスラエル人ではない。私たちは偏見を持つ。私たちはただ正直でいようと努めるだけで、私たちが見たことや私たちが知っていることを報道しようと努めるだけだ。私はジャーナリストだ。だれかが傾聴するなら私はジャーナリストだ。ガザの場合、「公式のジャーナリスト」は(すでに中にいたジャーナリストを除いて)ひとりもガザに入るのを認可されなかったので、私たちが目撃証人になった。それに関して全責任を有している。

私は常にジャーナリズムを「暗い部屋の中のあかりをひねる手」と理解してきている。ジャーナリストは好奇心の強いやつ、疎ましい質問者だ、反感を持つカメラとペンが政権を握る人たちを居心地悪く感じさせる。しかもそれがガザでの私の仕事のコンセプトだ:世界中で最も語られる争いで任務を遂行すること、ハマスによって発射されるロケット弾に対する仕返しで領土の全住民の上にイスラエルによって負わされている包囲と集団的懲罰の説明は、決して十分な正確さで語られることはない。このために、人の記憶(記録)に残される必要がある。イスラエルが私たちを入れさせないよう企てて、私は政権を握る連中によって「体よく」退去するよう求められたにもかかわらず、私はガザ内部にこっそり入った。すなわち私のジャーナリズムの思想である。彼であれで彼女であれ、誰かが見事に理解することを今にも掲載しようとしてカメラだのペンを持って歩き回ることについて世界中すべての政府がびびる。民主主義の重要な柱のひとつ、情報の為に。
 
これは埋込み型のフィルムである。軍隊の内部にはめ込まれるジャーナリストとの想像上の意見交換で見えてくる、「救急車の内部に埋め込まれる」ことで、私たちは解決した。一人残らず彼らが報道したい側を自由に選択できる。けれども判断には往々にして偏見があるものだ。撃って傷つけて殺すことが仕事の連中より、負傷者の救助に従事する一般市民のほうが状況の正しい見方をはるかにありのまま提供してくれるものと私たちは判断した。私たちは軍人と言うより衛生兵の方を好む。私たちは武器を持った連中より武器を持たない救助者の勇敢の方を好む、また興味深くはあるが、殺すため入隊する人の経験談を道義上拒絶できる。それは焦点(的を絞る)にかかわる問題だ。恐怖やトラウマ、選択の自由のある連中の反論に私は関心がない。故国にとどまる選択の自由や戦争反対と唱える選択の自由だ。

(July 20, 2010)
http://www.informationclearinghouse.info/article25972.htm

△Alberto ArceとMohammad Rujailahによるドキュメンタリーフィルム「To Shooting an elephant」ともっと詳細の記事は以下のサイトからご覧になれます。
http://toshootanelephant.com/

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