見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2015/10/28

入植者が国を乗っ取る

◇入植者のプロイセン
ICH by Uri Avnery 17 October 2015

イスラエルの民主主義が下り坂をすべっていく。紛れのないのを除いて、ゆっくりと不安を覚えずにすべっていく。

どこにすべりおちていくのか?極端なナショナリスト、人種差別的で宗教的な社会であるのを誰もが知っている。

この道のりを主導しているのは誰か?

そりゃもちろん政府だ。ベンヤミン・ネタニヤフによって率いられるこの前の選挙で権力を握ったこのやかましい取るに足らぬ人のグループ。

まさか。この大口をたたくけちなデマゴーグ、あれこれの大臣(誰がどの大臣か私にはまったく思い出せない)を全員捕らえてどこかに閉じ込めても何も変わらない。今から10年すると誰も彼らのどの名前も憶えていない。政府が主導していないなら一体誰がする?ことによると右翼の暴徒か?TVで見るこの人たちは憎しみにゆがんだ顔をして、声がかれるまでサッカーの試合で「アラブ人に死を!」と叫んでいるかまたはユダヤ人とアラブ人からなる町でのひどい事件のたびに「アラブ人は全員テロリスト!やつらを皆殺しにしろ!」と攻撃的行動を示す。

この暴徒(犯罪組織)は、ゲイ、判事、フェミニストなんであれ他の誰かに対して明日同じ攻撃的行動をとることがある。それは一貫していない。それは新しい秩序(統一性)を構築することができない。

いや、この国には入植者という十分強力で十分結合力があって国を乗っ取るほど断固とした唯一無比の集団がいる。

この前の世紀の中頃に偉大な歴史家アーノルド・トインビーが不朽の作を書いた。文明は、生まれて大きくなり成長しきって老化して死ぬ人間のようだというのが彼の中心となるテーゼ(題目)だった。これは実は耳新しいものではない、彼の前に(「西側の衰退」)ドイツの歴史家オスヴァルト・シュペングラーが類似したことを言った。だが、イギリス生まれのトインビーは彼のドイツ人前任者ほど形而上的ではなく、ほとんど結論も同然に推断しようと努めた。

トインビーの多くの洞察の中に、現在私たちに関心を持たせて然るべきことがあった。それは境界をなす地区が権力を獲得して国を乗っ取るまでの過程に関係する。

たとえば、ドイツの歴史。ドイツの文明は成長して、南部、次いでフランスやオーストリアで完全に発達した。豊かで洗練された上流階級が国中に広がった。都会では貴族のブルジョアジーが作家や作曲家に対して庇護者ぶってふるまった。ドイツ人は自らのことを「詩人や思想家界の人」とみなした。

だが、何世紀もの成り行きで、豊かな地域の若者や活気に満ちた者、特に何も受け継がなかった二番目の息子が自分自身で新たな領域を切り開くことを熱望した。彼らは東側諸国の境界に行き、スラブ人住民から新しい土地を征服して自分たちで新しい私有地を開拓した。

東の所有地はマーク・ブランデンブルグと呼ばれた。”マーク”とは(紛争中の)境界地域、どっちつかずの紛争地を意味する。有能な王子の家系の下で彼らはブランデンブルグが主役の権力になるまで彼らの国を拡大した。それに満足しないで、王子のひとりがプロシアと呼ばれる小さな東の王国を持参金としてもたらす女性と結婚した。そうして王子が王様になるとブランデンブルグはプロシアに加えられ、プロシアがドイツの半分を支配するまで戦争と外交によって拡張された。

ヨーロッパの中央に位置するプロシア国(プロイセン王国)は強力な隣国に囲まれ、自然の境界がまったくなかった、広い海もなければ高い山も、広大な川もなかった。それはただの平地だった。それで、プロシアの王様たちは人為的な境界、強力な軍を創設した。「他の国々は軍をもつ。プロシアでは軍が国をもつ。」とはフランスの政治家、カウント・ミラボーの名セリフだ。プロシア人自らが「兵士は国で一番の男」という表現法を造り出した。

他の大部分の国とは違って、プロシアでは「国家」の字はほとんど宗教上の地位をおびる。シオニズムの創始者でプロシア大崇拝者のテオドール・ヘルツル(失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人)は、この理念を採用し、彼の未来の建設を”Der Judenstaat"(ユダヤ人国家)と名付けた。

洗練された国がさほど洗練されてないがより屈強で大胆な境界の人々によって乗っ取られるというこの事象について、神秘主義を好まないトインビーは世俗的な理由を見いだした。

プロシア人は戦わなければならなかった。土地を征服し、そこの住民の一部を絶滅させ、村や町を造り、憤慨している隣国、スウェーデン人やポーランド人やロシア人による反撃に逆らいとおす。彼らはまさしく屈強でなければならなかった。

同時に、中心地の人々はうんとのんきな生活を送った。フランクフルト、ケルン、ミュンヘン、ニュルンベルグの市民はのんきに構えて金を儲けることができ、彼らの偉大な詩人の作品を読んで偉大な作曲家の曲を聴くことができた。彼らは原始的なプロシア人を軽蔑をもって扱うことができた。彼らがプロシア(プロイセン王国)のカイザー(ウィルヘルム二世)と共にプロシア人によって支配される新ドイツ帝国(German Reich)に自分たちがいることに気づく1871年までは。

この種の成り行きは歴史を通して多くの国々で起こっていた。周辺地が中心地になる。

古代において、ギリシャ帝国はアテネのようなギリシャの都市の洗練された市民によって起こされたのではなく、マケドニアの境界地出身の指導者アレキサンダー大王によって起こされた。もっとあとの地中海の帝国は洗練されたギリシャの都市によって始められたのではなく、ローマと呼ばれる周辺のイタリアの町によって始められた。

ドイツ南東部の小さな境界地、東の国境地方はナチスによって占領されてオストマルクに改名されるまで、オーストリア(Österreich、ドイツの”東ローマ帝国”)と呼ばれる巨大な多国籍帝国になった。例はたくさんある。

実際の歴史と作り上げられる歴史と、両方のユダヤの歴史にはユダヤ独特の例がある。ダビデという名の南部周辺出身の石を投げる男の子がイスラエルの王様になったとき、彼は首都をなつかしのヘブロンから彼がちょうど征服したばかりの新しい遺跡、エルサレムに動かした。その点で彼は新しい貴族政治がそれを安定させて繁栄させたあらゆる都市から遠かった。

ずいぶん後のローマ時代にガリラヤ出身の屈強な国境地の戦士どもが、今は洗練された貴族的な都市、南のエルサレムに降りてきて温和な市民に大いに優勢なローマ人との狂った戦争を押しつけた。ヘロデ大王の子孫のユダヤのアグリッパ王がフラヴィアス・ヨセフスによって告げられる印象的な演説で彼らをなんとか止めようとしたがムダだった。国境地方の人々が説き伏せるとユダヤ(ユダ王国の地)は反抗して第二の寺院が破壊された、そして今週、もしかすると神殿の丘(岩のドームとアルアクサモスクがあるアラビア語の”聖地”)で因果関係が悟られるかもしれない、そこでダビデの模倣者アラブ人の少年たちがゴリアテのユダヤ人模倣者に石を投げつけた。

今日のイスラエルでは、テルアビブのような裕福な大都市と大いに貧しい周縁部との間にはっきりした区別および対立がある、周縁部の住民は大部分が貧しい後進の東洋の国からの移民の子孫だ。

これは常にそうではなかった。イスラエルの国を起こす前、("Yishuv"と呼ばれる)パレスチナのユダヤ人コミュニティは労働党によって支配され、労働党は多くが国境地方に沿って位置した農業共同体の村、キブツが支配的な影響力をもった(彼らは実はYishuvの国境地方を構成したと言ってよかった)。そこで屈強な戦士の新しい子孫が生まれ、同時にわがままな都市の住人がさげすまれた。

新しい国ではキブツは単なる名ばかりのものになった、そして中心都市が文明の中心になり、周縁部によってうとまれ、嫌われさえした。それが最近までの状況だった。今はそれがどんどん変わっている。

1967年六日間戦争の翌日、新たに占領されたパレスチナ領土の入植地という新しいイスラエルの現象が頭をもたげた。入植地創設者は”民族特有の宗教的”な青年だった。

パレスチナのユダヤ人コミュニティYishuv時代の間、宗教的なシオニストはどちらかと言えば軽蔑された。彼らは肩身がせまい少数派だった。一方では彼らには非宗教的な社会主義のキブツの革命的な気力がまったくなかった。これに反して実際の正統派ユダヤ人はまったくシオニストではなかったし、シオニストの全企業を神に反する罪として非難した。(彼らの罪のためにユダヤ人を異郷生活を送る運命にして異教徒の中に分散させたのは神ではなかったのか?)

だが、1967年の征服の後、”民族特有の宗教的”グループが突然、中心勢力になった。東エルサレムにある神殿の丘と他の聖書による遺跡の獲得は宗教的熱意で彼らを十分満足させた。彼らは境界地方に住む少数派であることから強力な推進力になった。

彼らは入植者の運動を起こして、占領したヨルダン川西岸と東エルサレム中いたるところに多数の新しい町や村を据えた。右も左も両方のあらゆる継承政府の精力的援助を得て、彼らは増大し、繁殖した。左派の”ピース・キャンプ”が退化して活気を失う間、彼らは自分の手腕を十分発揮した。

かつてイスラエルの政界活動で最も穏健な勢力のひとつだった”民族特有の宗教的”グループは、ほとんどファシストの極右政党”ユダヤの家”になった。入植者もまたリクード党の優位な勢力になった。現在、彼らは政府を支配している。名ばかりの対立で入植者のリーバーマンはもっと右翼主義者の政党を率いる。中道派の人気者、Yair Lapidは、アリエル入植地で彼の党を設立して、今では極右主義者のような口をきく。労働党の党首、Yitzhak Herzogは彼らと肩を並べるために力なく努力する

どいつもこいつも全員が入植者特有の言い回しを用いる。入植者用語“ユダヤとサマリア”を使うのを除いて、彼らはもはやヨルダン川西岸について話さない。

私はトインビーにならって、辺境での生活で引き起こされる挑戦によってこの現象を説明する。

状況が今より緊張していない時でも、入植者は危険に向き合う。彼らはアラブ人の村や町に囲まれている(というか、むしろ彼らがアラブ人の中央に立ち入った)。イスラエルの町の人々が快適な暮らしを送る間、彼らは投石やハイウエーへの散発的な攻撃にさらされて、絶えず続く軍の保護下で暮らす。

もちろん、すべての入植者が狂信者であるわけではない。入植者の多くは、イスラエル本土では夢にも思えなかったヴィラ(大邸宅)と庭をほとんどタダで政府がくれたから入植地に住むことを引き受けた。彼らの多くがけっこうな給料の政府の雇い人だ。

多くの工場がイスラエル本土を出た、本土の土地を法外な金額で売り、ヨルダン川西岸への移転のために莫大な政府の助成金を受け取った。もちろん彼らは近隣の村から安いパレスチナ人労働者を雇う、適法の最低賃金またはどのような労働法も免れる。他の仕事がまったく入手できないためにパレスチナ人は彼らのために精を出して働く。

だが、この”慰めとなる”入植者でさえも過激派になった、テルアビブの人々がカフェや劇場をエンジョイする間、生き残って彼らの家を守るために。万一に備えて、これらの古顔(年配者)の多くはすでに別のパスポートを保有する。入植者が国を支配するのも無理はない。

成り行きはすでに申し分なく進展している。新しい警察署長はキッパを身につけている元入植者。シークレットサービスの署長もそうだ。軍の士官や警官はますます入植者だ。政府において、クネセト(イスラエル国会)において、入植者が巨大な影響力を行使する。

約18年前、友人と私が入植地の製品のイスラエル・ボイコットを最初に宣言したとき、私たちは何が起こっているか会得した。これは、現在、イスラエルにとって事実上の戦いだ。

△Uri Avneryは、イスラエル人作家でGush Shalom平和運動の創設者です。十代でIrgunのメンバーのAvneryは、1965年から1974年と1979年から1981年までイスラエル国会の議員でした。

http://www.informationclearinghouse.info/article43159.htm