見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2021/12/19

イアン・フィッシュバック少佐

 


11月27日、エドワード・スノーデンがツイート:

オミクロンは80年代の映画の邪悪なロボキングの名前のように聞こえる。



◇フィッシュバックの抵抗はタイム誌にその年の世界で最も影響力のある100人として彼の名を挙げさせる結果となり、彼の行動をベトナムのソンミ村虐殺事件を終わらせたヘリ操縦士ヒュー・トンプソンの英雄的行為になぞらえる。

https://www.washingtonpost.com/obituaries/2021/11/24/ian-fishback-army-dead/


◇抑留者の虐待を暴露したイアン・フィッシュバック少佐(Maj. Ian Fishback)が42歳で死す

二人の上院議員に宛てたイラクの米軍による無情な扱いに関する彼の手紙は軍の囚人の極端な虐待を禁止する2005年の法律をもたらした。

NY Times Nov. 23, 2021


イラクの第82空挺師団の同僚が日常的に囚人をぶちのめして虐待したとの申し立てが上院を促して2005年に拷問に反対する法案を承認させた陸軍内部告発者イアン・フィッシュバックが11月19日にミシガン州バンゴーで亡くなった。彼は42歳だった。


彼の家族は声明のなかで死因は特定されていないと述べた。名を揚げるが短縮されたキャリアの頂点、成人里子養育施設で彼は亡くなった。イラクとアフガニスタンでの戦闘在任期間に起因する神経病学上の損傷または心的外傷後ストレス障害(PTSD)の結果としてだんだん解明されてきたと家族は述べている。妄想的になって公然と騒動を引き起こすようになったあと、彼は抗精神病薬による裁判所命令の治療に従って施設に入れられたと家族は述べた。


フィッシュバック少佐は、囚人たちを暴行し、極端な低温にさらし、人間ピラミッドに積み上げ、睡眠を奪って情報を漏らすよう強要することで、あるいは場合によっては単に兵士を楽しませるために大隊の兵士が故意に囚人を虐待していたと伝えられる第82空挺部隊の3人の元隊員のひとりだった。彼の苦情は17ヶ月間、上官によって無視されたと彼は述べている。


上院軍事委員会の二人の上級共和党員、委員長のバージニア州選出ジョンW.ワーナーとアリゾナ州選出ジョン・マケインの主席補佐官への手紙のなかでフィッシュバック少佐は虐待の一部を報告した。調査を認可するにあたり彼の報告は十分に信用できたと補佐官は述べた。


航空師団の他の二人の隊員によるさらなる申し立てはその月の後半にヒューマン・ライツ・ウォッチが公表した報告書に含まれていた。


「イアンの最高の資質は勇気ではなくて彼の人間性」だと友人のクリストファー・ニコルソンはgofundme.comに書いた。友人たちはマサチューセッツ州ストックブリッジの民間の精神科治療施設にフィッシュバック少佐を移すためにサイト上で6万ドルの目標に向けて彼が死ぬまでに1万8000ドル以上を調達していた。


「彼が撃たれる可能性、テロリストによって撃たれる状態にわたしはいつも驚嘆した。そして戦闘で友達が死ぬのを見守り、次の瞬間には囚人が人並みに扱われることを要求することで自分を危険にさらす」とニコルソン氏は書いた。


「一度わたしが彼を戦争のエキスパートと呼んだことを憶えています。すると彼は少し気分を害したようで、正義のエキスパートだと返答しました。」


上院議員に宛てた手紙のなかで、訓練を受けた行動を取る、戦場のマニュアル指示に従う、上官の命令に従う、そして実際の戦闘の切迫した事情に対応する義務の中で軍隊がたびたび引き裂かれたとフィッシュバック少佐は述べた。


「この混乱が、死のおどし、無情な扱い(むち打ち)、骨折、殺害、風雨にさらす、極度の強制された身体運動、人質を取る、裸にする、睡眠妨害、自尊心を傷つけるような扱いを含めて、幅広い虐待の一因になったとわたしは確信する」と彼は書いている。「わたしとわたしの指揮下にある軍隊はアフガニスタンとイラクの両方でこれらの虐待のかなりに立ち会いました。」


「安全確保に先手を打つためにわたしたちは理想を犠牲にするのでしょうか?」と彼は続けた。「理想に先手を打つためにわたしたちは危険と逆境に対峙するのでしょうか?または個人の権利に対するわたしたちの勇気と責任(掛かり合い)は犠牲の見通しで弱るのでしょうか?」


彼は手紙を次のように締めくくった:「認めるべき点は認めて制服を着た男女に正当な扱いをするようわたしはあなた方に強く主張します。命を危険にさらす理想を反映した明確な行動基準を彼らにお与えください。」


2005年後半、上院は90対9でマケイン上院議員の抑留者待遇法を可決した。それは「残酷で非人道的または自尊心を傷つけるような扱い、または罰」を禁止したが、その後の改正が差し止め警告を切り開いた。


タイム誌はその年の世界で最も影響力のある100人のひとりにフィッシュバック少佐の名を挙げた。


イアン・フィッシュバックは1979年1月19日にデトロイトで生まれた。彼はミシガン州アッパー・ペニンシュラの約1500人の村であるニューベリーで育った。1997年にニューベリーハイスクールを卒業し、そこではフットボールとレスリングにすぐれた。そして彼は軍の経歴に従事することを決意したと父親は述べた。


「彼は世界でもっとましなことをする道を探していた」と資金調達のキャンペーンを組織化した少年時代の友人、ジャスティン・フォードは言った。「彼は組織(社会構造)を期待していた。」


https://www.nytimes.com/2021/11/23/us/ian-fishback-dead.html?smid=tw-nytimes&smtyp=cur

2021/12/14

メルケルとニナ・ハーゲン

 


久々に聞く名前、ニナ・ハーゲン

彼女の曲はなんと先日退任したメルケル首相の“青春時代のハイライト”だったとか

確かにティーンエイジャーのアンゲラ・メルケルにはニナ・ハーゲンのファンといっても通じる雰囲気があった


△BBCニュース 2021年12月4日

在任16年を経て来週退任する予定のアンゲラ・メルケル独首相の退任式が2日夜、独国防省で行われた。

首相や大統領などが退任する際、本人が選んだ曲を軍の音楽隊が演奏するのが慣例。

旧東ドイツで育ち、牧師の娘でもあるメルケル氏は、18世紀のキリスト教の聖歌のほか、戦後ドイツの人気女優・歌手ヒルデガルト・クネフの「私には赤いバラが雨のように」、さらには東ドイツ出身の人気パンクロック歌手ニナ・ハーゲンが東独時代にヒットさせたポップスの曲を選んだ。

ニナ・ハーゲンの曲は1974年の「カラーフィルムを忘れたのね(あんたがカラーフィルムを忘れたから)」。恋人がカメラにカラーフィルムを入れるのを忘れたため、旅行の記念写真が白黒になってしまったと怒る若い女性のアップテンポの曲は、当時の東ドイツの(灰色の)物不足の状況を描いたとされる。多くの東独出身者には、「この国がどれほど美しかったか誰も信じてくれない」という歌詞が、特に印象に深く残っているという。

式典前の記者会見でこの曲を選んだ理由を質問されたメルケル氏は、「この曲は青春時代のハイライトだった」と答えた。さらに「自分の選挙区だった地域が曲の舞台になっている」ため、「すべてがぴったりはまる」のだと説明した。

https://www.bbc.com/japanese/video-59529860


画像は学友だったドイツのメルケルとイギリスの元首相テリーザ・メイ、リトアニアの大統領ダリア・グリバウスカイテ