見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2022/09/30

ビヨークのチベット、チベット

この記事は当初、2008年3月に投稿したものです。本日、Bloggerの基準から外れているため未公開になったと表示されていることに気づきました。一部、北京オリンピックのポスターの画像とリンク先の掲載がない記事2本を削除し、再検閲を求めたところ、このように公開されました。基準の解釈がよくわかりません。はっきりしているのはリンク先を付けるのを忘れたことです。


上海コンサートのアンコール曲のなかでビヨークが「チベット、チベット」と歌ったことが中国当局からいろいろ言われました。さすがビヨーク!ぶれずにアーティストができることをやっています!

中国当局から出ているコメントを読むと、会場のファンからも「ブーイング」みたいに聞こえますが、YouTube で見ると、決してそんなことはありません。彼女も扇動しているというよりは、抑揚をつけて「チベット、チベット」と歌っているだけで、「Raise your flag!(主張の声を大きく)」と何度かチャントして「シェーシェ(サンキュー)」で終えています。会場のファンの反応は?というと、日本の会場でもそうですが、何が起きているかよく理解できないためでしょうか、全体としてはただ盛り上がっている感じでした。
アンコールで歌った曲「Declare Independence」はもともと、デンマーク自治領であるグリーンランドやフェロー諸島の独立支援のために書かれた曲です。ちなみに2月の日本公演ではこの曲で「チベット」の部分は「コソヴォ」と歌いました。
それでも、もちろん中国政府は猛烈な反応ですし、ファンも怒っているとニュースには出ます。その場のファンというよりも、その後のネットで怒りが広まったとありますが、どこまでが人々の本当の反応なのかはわかりません。
以下は、この騒ぎにすぐに反応したビヨークのコメントと、ニュースからーー。

◇bjork.com news 04 March 2008
声明:「私は政治家ではありません。終始一貫してミュージシャンで、人間の感情の全域を表現しようと精いっぱいやってみるのが私の義務と感じるようなミュージシャンだということに重きを置いてもらいたい。独立を宣言することに対する強い衝動(駆りたてる力)はそのひとつにすぎませんが、私たちみんなが一生に何度となく感じる重要な感情です。これは個人的なことを意図して書かれた歌ですが、実際には私をすごく喜ばせる、抑圧された国家の闘争という広い意味に解釈されてきています。独立のための闘争で、すべての個人と国家にグッドラックを祈りたい。
正義を! warmth, bjork. 」

◇2008年3月7日、世界中で熱狂的なファンを持つアイスランドの歌姫ビヨークが中国公演のステージ上で「チベット独立」を叫んだ事件で、事態を重く見た中国文化部は彼女に対し法的措置をとると発表した。
今月2日に上海市で行われたコンサートで、ビヨークはステージ上で中国当局から許可を得ていない曲「Declare Independence(独立宣言)」を歌い始め、突然「チベット!チベット!」と叫んだという。これには中国の聴衆も驚き、事件はまたたく間に内外に報道された。
中国文化部スポークスマンは、政府は国際的文化交流活動を積極的に奨励しているが、国内で活動する海外のアーティストや団体は国家の「営業性演出管理条例」を遵守しなければならないと強調。この規定に違反して個人的な芸術活動を政治利用し、中国人民の感情を傷つけるアーティストは歓迎しないと強い不満の意を表明。ビヨークには法的措置をとると述べたうえで、今後中国を訪れる海外のアーティストや団体の芸術活動について、より厳しいチェックを行うことを明らかにした。
(Record China 2008年3月10日)

◇ビヨークがチベット独立を支援するのは今回が初めてではない。1996年に米サンフランシスコで行われた「フリー・チベット」コンサートにも出演している。(AFP 2008年3月7日)

◇「人権団体は視力に問題あり」 中国、批判に猛反発
中国外務省の秦剛副報道局長は11日の定例記者会見で、中国政府を批判する報告書を発表した国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)について「人権をウオッチするとしているが、視力に問題がある」とあからさまに非難した。
秦副局長は、同団体について「白内障」「重度の弱視」などと侮辱的な言葉を繰り返し「メガネを換えてほしい」と指摘。「視力に問題ある人が見たものについての結論が信用できるか」などと発言した。
ヒューマン・ライツ・ウオッチは北京五輪の関連施設などを建設する出稼ぎ労働者が搾取されている状況を批判する報告書を発表している。
(共同通信 2008年3月11日)

◇中国、オリンピック開催国にふさわしくない 米公聴会 
ワシントン発:米国の「中国に関する議会・政府委員会」が27日に開いた「北京五輪の中国での人権と法の統治に対する影響」と題する公聴会で、米国議会上下両院議員たちが中国政府の人権弾圧の事例を次々に指摘し、五輪開催国にふさわしくないという批判が続出した。
同委員会の委員長のサンダー・レビン下院議員(民主党)は「中国政府は国内の人権擁護促進への誓約を前提条件の一つにしてオリンピック開催国になったが、人権弾圧は依然、続いており、この数週間でも当局は人権への懸念をオリンピックとからめて述べただけの活動家たち数人を拘束した」と指摘して、中国政府への抗議の姿勢を明確にした。
クリス・スミス下院議員(共和党)は「中国には言論、報道、集会の各自由がない」と前置きして、「中国政府のそうした人権侵害の性格と規模を考えると、オリンピックが中国の首都で開かれるというのは恥辱だ」という抗議の意を表明した。
バイロン・ドーガン上院議員(民主党)も「中国当局は従来の人権抑圧に加えて、2008年の北京オリンピックの開催を利用して自国政府の人権弾圧の実態を広く内外に知らせようとした中国人活動家たちをすでに逮捕し始めた」と非難した。
同議員はさらに「中国政府は自国民に自由な発言の権利、労働者の権利、政府批判の権利などを認めておらず、その状態はオリンピックの精神に違反する」と述べ、中国人政治犯のうちの主要人物7名の実名をあげ、その釈放を要求した。
(サンケイ新聞 2008年2月28日)

◇14日付の英タイムズ紙は、夏の北京五輪の際に、北京の大気汚染が改善されていない場合、英選手が競技中に、専用マスクを着用することを英国オリンピック委員会(BOA)が検討していると報じた。
英国選手が着用する可能性のあるマスクは、大学研究者らが五輪に向け競技用に設計。汚染物質を吸収できるフィルターを使ったマウスピースが備えられているというが、詳細は明らかにされていない。
女子マラソンの世界記録保持者ポーラ・ラドクリフ選手(英国)らが1月、南アフリカでテストしたという。
(共同通信 2008年2月15日)

世界保健機関の報告書によると、大気汚染による死亡者数は年間300万人。これは交通事故死(年間100万人)の3倍にあたる。医学誌「ランセット」が2000年に発表した調査結果は、フランス、オーストリア、スイスの大気汚染による死亡者数は3か国合計で年間4万人を超えている。このうち、クルマの排気ガスが原因で死亡した人の割合は半数近くにのぼる。
アメリカの交通事故死は年間4万人強、大気汚染による死亡者は7万人を数える。7万人というのは乳ガンと前立腺ガンの合計死亡者数に匹敵する。大気汚染は、先進国および発展途上国の都市部に住む数10億人の健康を脅している。
(地球白書のワールドウオッチインスティテュートより)

写真は、今回のツアーでのビヨーク

非常に奇妙な国葬

 


27日のサンケイ新聞

4ページのクラウドファンディング署名広告と、27日の東京新聞

オーストラリア国営放送の安倍の国葬報道:

非常に奇妙な国葬。岸田の判断は最悪、訪日する海外首脳は誤った情報を与えられている可能性があり、トルドー首相が民主的プロセスを経てない国葬より自国の災害対策を優先したのは正しい。オーストラリア首脳の訪日は何も得るものはないだろう…



◇エドワード・スノーデンにロシア市民権が授与される

ニューヨークタイムズ紙 Sept.26, 2022


26日月曜、ロシアのウラジミール・V・プーチン大統領はエドワード・J・スノーデンにロシア市民権を正式に授与した。スノーデンは、大量の監視ノウハウを報道機関に明らかにしたあと、世界で最も有名な亡命者になったNSAアメリカ国家安全保障局およびCIAの元局員だ。


スノーデン氏は2020年にロシア市民権を申請していると述べ、この決断を家族に国境を越えるすばらしい自由を与えるための実際的な手段だと説明した。


彼の要請は月曜付の大統領令でプーチン氏によって正式に認められ、クレムリンによって発表された。39歳のスノーデン氏は大統領令で市民権を認められた数十人の外国人の中にまじる。


2013年、大量の高度に機密扱いされたNSA文書をガーディアン紙とワシントンポスト紙に託した後、スノーデン氏はエクアドルに亡命を求めるつもりだった、そして香港を出発し、南米に到着する予定だった。だが、アメリカ当局が彼に接触しようと務めるとき、彼はモスクワのシェレメーチエヴォ国際空港のトランジットゾーンで乗り継ぎ中に取り残されることになった。

40日後、トランジットゾーンを離れることを許され、それ以来9年の間、彼はロシアに留まってきている。


2013年にアメリカから逃れた後、彼はスパイ行為法(Espionage Act)違反で起訴された。それはトータルで数十年ものあいだ収監される可能性があった。スノーデン氏はモスクワにいる間、ロシアの諜報機関に協力しておらず、いつかアメリカに戻ることを望んでいると語った。


ロシア国営通信社RIA Novostiによると、スノーデン氏の弁護士Anatoly Kucherenaは、スノーデン氏はウクライナ戦争でロシア軍を強化するために先週プーチン氏が宣言した「部分的動員」の対象にはならないと述べた。ロシア軍務の経験がまったくないため、スノーデン氏は徴兵の対象外だと言った。


弁護士はスノーデン氏の妻もまた市民権を申請すると述べたとRIA Novostiは報じた。


2020年にロシアで永住権を取得した後、彼と妻は「アメリカ人のままであり、わたしたちが愛するアメリカのあらゆる価値観で息子を育てる、それには自分の意見をはっきり言う自由も入る」とスノーデン氏はTwitterに書いた。


「そして合衆国に戻れる日が待ち遠しい、まさに家族全員が再会できる」と彼は付け加えた。


https://www.nytimes.com/2022/09/26/world/europe/edward-snowden-russia-citizenship.html?smid=url-share


◇プーチン、アメリカの内部告発者エドワード・スノーデンにロシア市民権を付与

2013年に極秘ファイルをリークした後、NSA元諜報請負業者はロシアで安全な避難所を与えられた

ガーディアン紙 26 Sep 2022


アメリカ諜報機関の元請負業者、39歳のスノーデンは、ガーディアン紙が公表した極秘ファイルをリークした後、アメリカでの起訴を逃れるためロシアで暮らしてきている。彼がリークしたファイルはアメリカ国家安全保障局が遂行した大規模な国内および国際的な監視活動を明らかにした。


2020年にスノーデンは、パンデミックと国境閉鎖の時代に生まれてくる息子から引き離されないために、彼と当時妊娠中の妻はロシア市民権を申請していると述べた。


「両親と何年も切り離されたあと、妻とわたしは息子たちから切り離されることを望んでいない」と、プーチンが市民権を付与した72人の外国生まれの個人リストに名前があった月曜日にスノーデンは述べた。「2年の待機期間とほぼ10年近くの亡命のあと、わずかながらの安定がわたしの家族には重要です。家族と、わたしたちすべてのために、プライバシーを求めて祈ります。」


スノーデンに市民権を付与するとのプーチンの大統領令はすぐに、内部告発者は全国的な動員キャンペーンの一環としてウクライナで戦うためにまもなくロシア軍に徴兵されるとのソーシャルメディア上の警句につながった。


ロシア国営放送局RTの編集長Margarita Simonyanは、彼女のテレグラム・チャンネルに「スノーデンは動員される?」と書いた。スノーデンのロシア人弁護士Anatoly Kucherenaは国営通信社Ria Novostiに、依頼人は以前にロシアの軍隊で軍務に就いたことがないため、徴兵できないと語った。


内部告発者はロシアで暮らす間、ほとんど人目につかないよう心がけて、時折、モスクワの家族の写真を投稿している。彼は2019年に、もし公正な裁判が保証されるなら、喜んでアメリカに戻ると言っている。


以前にクレムリンの人権記録を批判したスノーデンは、ロシアのウクライナ侵略について公の場でコメントしていない。戦争より先に彼はロシアが戦争を始めるのではないかと疑い、繰り返しことばに表した、そして戦闘を「せきたてる」とメディアを非難した。


https://www.theguardian.com/us-news/2022/sep/26/putin-grants-russian-citizenship-to-us-whistleblower-edward-snowden?utm_term=Autofeed&CMP=twt_b-gdnnews&utm_medium=Social&utm_source=Twitter#Echobox=1664210267

2022/09/25

ベルベット革命

 


ルー・リードが、チェコのヴァーツラフ・ハヴェル大統領と、今年3月に死去したマデリン・オルブライト元国務長官(チェコ移民)をニューヨークのビートの溜まり場だったライブハウス、Knitting Factoryに連れて行ったそうです!これって、hugeすごいと思いませんか



ヴァーツラフ・ハヴェル大統領とルー・リード


◇ルー・リードがいたから、私は大統領になった


ホワイトハウスがわたしのために晩餐会を開いてくれるのであれば、ぜひとも、友人のルー・リードも招いてホワイトハウスで彼の演奏を聴きたい…


そんなリクエストをアメリカの大統領にした人がいた。1989年から92年までチェコスロバキア大統領、93年から2003年までチェコ共和国初代大統領、そして劇作家でもあるヴァーツラフ・ハヴェルだ。


アメリカの当時の大統領はスキャンダル渦中のビル・クリントン。彼はハヴェルのリクエストを快諾。1998年9月、ホワイトハウスで催されたハヴェル大統領のための晩餐会でルー・リードの演奏が実現することになった。


1998年9月17日のワシントンポスト紙(記事のタイトルInternational Velvet)によると:

「昨晩、ホワイトハウスはスキャンダル(ホワイトハウスの実習生モニカ・ルインスキーとの大統領の不倫問題)以外のすごいことですばらしい時を過ごした。わたしたちは本物のロックンロールスター、ルー・リードと本物のロックンロールミュージックについて話している。クリントン夫妻はいつも通り元気で申し分ない。ファーストレディは招待客に大声で挨拶している。夫妻はたくさんの励ましの言葉を聞いた、とはいえ、両方のクリントンを抱きしめたのはスティービー・ワンダーだけだった。」


「劇作家から政治家になったハヴェルを称える晩餐会はたくさんの劇的な気晴らしを提供した。配役には、行政官やスタッフに加えて、女優ミア・ファロー、陽気なヘンリー・キッシンジャー、作家カート・ヴォネガット、モデルのPaulina Porizkovaやチェスの名人Lubomir Kavalekが含まれていた。」


「共産主義支配に反対する1989年のビロード革命で中心的な役割を果たしたこの反体制の人は、今年初めにチェコ大統領として二期目5年の任期を決めている。61歳のハヴェルはNATO加盟を獲得するためや他の安全保障問題で自国の取り組みの最前線に立っている。だが、これらの努力は健康状態の悪化によって妨げられてきた。彼は1996年後半に肺がんの手術を受けて以来、何度か入院、生命を脅かす肺炎から回復し、医師と看護師を伴っての今回のワシントン訪問となる。」


「彼の答として、ハヴェルは両国間の関係について語り、友人のマデリン・オルブライト国務長官をあげた、彼女は旧チェコスロバキアで生まれた。“ヨーロッパ問題について彼女のすぐれた感覚により、彼女はとりわけヨーロッパ大陸で非常に必要とされているアメリカの存在の引き受けになってくれている”と彼は述べた。その後、ハヴェルはクリントンに向き直り、彼にチェコ共和国の最高位の勲章であるホワイトライオン勲章を贈った。」


「しかしながら、本当に格別の喜びを与えるものはエンターテイメントだった。30年来のファンであるハヴェルの特別のリクエストでヴェルヴェット・アンダーグラウンドの創設メンバーであるルー・リードは招かれた。ハヴェルはチェコ国民とベルベット革命に影響を与えたと考えてルー・リードを評価している。昨夜、非常に壮大なイーストルーム(ホワイトハウス複合施設の建物である行政棟のイベントおよびレセプションルーム、行政棟で最大の部屋)の片隅でルー・リードは彼のいつもの不遜でぶっきらぶうなスタイルでヴェルヴェットの傑作のヒット曲を演奏した。35分のパフォーマンスの間、ゴア副大統領を除いて、聴衆は集中していたがトーンを落としているように思えた、ゴア副大統領の椅子は絶えず揺れていた。」


「最後に、笑顔のクリントン大統領が、“わたしがたったいま愉しんだようにあなたが愉しんでくれたなら、ハヴェル大統領をさすがと認めるべきです”と言った。」


「ルー・リードは威厳のある周囲の状態に動じなかった。“ぼくらはただのミュージシャンですから、たくさんの場所で演奏します”と彼は普通でない会場について言うと、彼のバンドはもうひとつの“ニューヨークのバンド”にすぎないと、からかうように注を付けた。

街は違えど同じいつものギグ。」


https://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/daily/reedhavel0917.htm


△劇作家ハヴェルは、まだルー・リードがヴェルヴェット・アンダーグラウンドとして活動していた頃にアメリカに行き、彼らの音源をチェコに持ち帰った。ヴェルヴェットに影響されたバンドPlastic People of the Universeの活動が政府によって弾圧されると、言論の自由、信教の自由、集会・結社の自由、法の平等を求めてハヴェルたちが抗議、Charta 77(憲章77)を発表する。仲間の投獄や弾圧にもかかわらず、ハヴェルたちの活動は続き、ついに1989年にビロード革命となった。


△音楽と宗教を解放した「憲章77」

「憲章77」の運動そのものは警察の力によって封じ込められたが、社会の中のエネルギーを二つの分野で解放した。音楽と宗教だ。ジャズ、フォーク、ロックなどの音楽は社会的閉塞感のなかで爆発的な人気が高まっていたが、当局はそこに危険な破壊的エネルギーを嗅ぎとり、人気バンドのコンサートを禁止した。公認の音楽家協会の一部門であった「ジャズ部会」も演奏が禁止されたが活動を続けたため、86年にバンドリーダーのカレル=スルプ以下が有罪となった。これらの動きは民衆の反発を強めるだけだった。宗教面でも牧師たちの中に「憲章77」に共鳴して人権運動に加わるものが現れ、「地下教会」で伝道が続いた。(木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書)


ハヴェルたちの思想的背景になったのが、ルー・リードの音楽だった。

「それが、1970年代を通して徐々に吹き出した反乱の火種に火をつけ、1980年代に燃え上がる、そしてビロード革命(Velvet Revolution)の輝かしい花火に至る。」(エコノミスト誌)

http://www.economist.com/blogs/easternapproaches/2013/10/lou-reed-and-v-clav-havel


大統領になったハヴェルは、チェコを訪れたルー・リードのインタビューを受け、その夜、ルーはプライベートライブを行う。その対話については、「ニューヨーク・ストーリー ルー・リード詩集」(河出書房新社)に収められている。

音楽的な背景をもった静かな革命/ヴァーツラフ・ハベル/ルー・リード


ルー・リードのインタビューに応えてハヴェルが語り出す。

「私たちのこの革命は他のすべての面とは別に音楽的な面をもっています。特に音楽的な背景を持つ革命」であると。

ハヴェル大統領はルー・リードに今夜クラブで演奏するのか?と尋ねる。 

ルーはその夜クラブに向かう。すでにチェコのバンドが演奏している。 

「わたしは突然、曲に聞き覚えがあることに気づいた。彼らはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌を演奏していた。」

「一夜漬けの練習でできるものではなかった。」

「編曲、強調されたライン、間の取り方、まるで時間を遡って自分自身の演奏を聞きに戻ったような感じだった。」

そしてルーはプレイして、彼らとのセッションを堪能する。

演奏が終わると、大勢の人たちがルーのもとにやってくる。

「私の曲を演奏して刑務所に入っていた者もいた。刑務所に入っていた時、自分を勇気づけ慰めるために私の歌詞を暗唱していたと大勢が言った。なかには、私が15年前に書いたエッセイの中の一行“誰もが音楽のために死ぬべきだ”を覚えている者もいた。それは私にはとてつもない夢で、私の最も遠大な期待をはるかに越えるものだった。」


◇ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからベルベット革命(Velvet Revolution)へ

2013年10月27日に75歳で亡くなったミュージシャン、ルーリードは共産主義の打倒に貢献した

エコノミスト誌 Oct 30th 2013

https://www.economist.com/eastern-approaches/2013/10/30/from-velvet-underground-to-velvet-revolution



2022/09/20

ゴルビー!ここから出してくれ

 


ミハイル・ゴルバチョフが死去しました… ゴルビーはベルリンの壁崩壊に欠かせないコマでした

クイーン(エリザベス女王)がこの世を去り、天国でクイーンのフレディ・マーキュリーと再会します。フレディに「デュエットしますか?」と言われ、女王が「Why Not !(もちろんよ!)」と応じるイラストが話題になっているとか

ここにあるので見てください https://amass.jp/160746/




写真は、1987年6月9日、東ベルリンの音楽ファンがボウイの演奏を聞こうとベルリンの壁に近づきすぎるのを止められている(AP)


◇デヴィッド・ボウイはこのようにしてベルリンの壁を倒すのを助けた

September 12, 2019 


1987年、デヴィッド・ボウイは国会議事堂近くの西ベルリンでコンサートを行った。演奏は大音量を出し、彼の歌をもっとましに聞くために近くのベルリンの壁の東側にすごい群衆が集まった。彼には、鉄のカーテンの向こう側で東ドイツ人が自分といっしょに歌っているのが聞こえた。


当時、それがベルリンの希望をくじく東西分裂の終わりの始まりのための触媒になることをボウイは知らなかった。


ベルリンの壁は東ベルリン市民(およびすべての東ドイツ人)を東ドイツの内側に留めておくために1961年に建設された。間違いなく、欧米人を中に入れないために必要だったのではなかった。それはすぐに東ヨーロッパの上に迫る鉄のカーテンのシンボルになった。片一方を強いられた共産主義の抑圧に服従させておき、もう一方を自由と自治の急成長する社会に留めておく東西間の障壁だった。


ボウイが1977年のアルバム“Heroes”をレコーディングしたのはベルリンだった。それは東ベルリン出身と西ベルリン出身のふたりの恋人についての曲。ベルリンのシェーネベルク(Schöneberg)地区でパンクの伝説の人、イギー・ポップと暮らしていたボウイはドアの外に出て冷戦まっただ中の生活に属している専制政治と死を経験することができた。この曲の歌詞はまさにベルリンの窮状について描写したものだったので、ベルリンのアンセム(祝歌)のひとつになった:

I, I can remember (I remember)

Standing, by the wall (by the wall)

And the guns, shot above our heads (over our heads)

And we kissed, as though nothing could fall (nothing could fall)

And the shame, was on the other side

Oh we can beat them, forever and ever

Then we could be heroes, just for one day


7万人のドイツ人が1987年のコンサート・フォー・ベルリンに随行した。

アーティストたちはベルリンで何年も過ごし、“Heroes”に加えて、“Low”と“Lodger”のアルバムをレコーディングする。現在、それらはボウイの「ベルリン3部作」と呼ばれている。“Heroes”のレコーディングから10年後、ボウイは、西ドイツの国会議事堂(Reichsta)の近くで開催された3日間のフェスティバル、コンサート・フォー・ベルリンの一環としてベルリンに戻ってきた。近くにブランデンブルグ門があり、悪名高いベルリンの壁に達する。ドイツ民主共和国(東ドイツ)で禁じられた音楽が西側で大音量で鳴り響き、壁を越えて軽々と運ばれた。


ボウイに加えて、ユーリズミックス、ジェネシス、ブルース・ホーンズビーが登場した。門の近くのエリアに何千人もの東ベルリン市民が群がり始め、東ドイツの警備員が彼らに反撃し、エリアから引きずり出して手に負えない人々を逮捕したとき、耳に入ってくるものを聞き取ろうと試みた。壁の近くで聞けないとすれば、電波によって聞くことができた。ラジオ局Radio in the American Sectorが、アーティストとレコードレーベルの「どうぞ、よろこんで」の承認を受け、コンサートをすっかり街中くまなく放送した。


「それは壁が仕切りの二重のコンサートのようだった」とボウイはアトランティック紙に語った。「そしてわたしたちには壁の反対側から彼らが歓声を上げて歌っているのが聞こえた。すごい、今でも息がつまる。胸の張り裂ける思いだった。わたしの人生でそのようなことをしたことは一度もなかったし、もう二度とないと思った。わたしたちが‘Heroes’を演奏したとき、本当に聖歌を歌って祝うように、ほとんど賛美歌のように感じた。」


ついに、群衆が本格的なシュプレヒコールに突入した、「壁は倒れなければならない!」、そして「ゴルビー(ゴルバチョフ)、わたしたちを出してくれ!」3日目の夜、コンサートが終了したとき、東ドイツの警察が警棒で群衆を撃退した。ボウイは2日目の夜に主役を演じたが、間違いなく彼のパフォーマンスは次の夜、もっと多くの東ベルリン市民を壁に惹きつけた。それほどの多くの住民を反政権にさせたのは、東ベルリン警察からの過剰反応だった。それは街のムードを完全に変えた。ベルリンが分割されたのはフラストレーションが壁を圧倒する前のわずか2年のみだった。


「アルバム‘Heroes’ のタイトル曲はボウイの最もよく知られる作品のひとつで当時分断されていたわたしたちの街と自由へのあこがれの賛美歌になりました」とベルリン市長ミヒャエル・ミュラーは述べた。「この歌で、ボウイはスタンダードナンバーを固めただけでなく、間違いなくわたしたちの街への愛着を表現しました。」


壁が倒れて街が統一された後、ボウイは1989年に再びベルリンで演奏した。ベルリンでの彼の最後のショーは2004年だった。2016年にボウイが亡くなったとき、ドイツ政府は壁を倒し東西に二分されたドイツを統一したことに対して彼に公式に謝意を表した。


https://www.wearethemighty.com/music/david-bowie-berlin-wall/



2022/09/04

ハワード・ジンの民衆のアメリカ史

 


ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』は、ふと見上げるとそこに月がある!みたいな感じで、わたしには一つのよりどころとなる存在であることに気づく

年を重ねてから読んでも、きっと世界が前に向かってひろがって見えるはず


◇“戦争はだれでも皆に偏見をいだかせる”:

彼の100歳の誕生日に伝説の歴史家ハワード・ジンを思い出します

デモクラシーナウ! AUGUST 24, 2022


わたしたちは、100年前の今日生まれた伝説の歴史家、作家、教授、劇作家、そして活動家であるハワード・ジンを思い出します。

ジンは、当番組が始まる1996年から2010年に87歳で死去するまでDemocracy Now!の常連のゲストでした。

第二次世界大戦の惨事を爆撃手として立ち会ったあと、ジンは公民権運動の最中にスペルマン・カレッジで生徒たちとピケを張る平和と正義の活動家になり、たとえばベトナム戦争反対の行動に参加しました。彼は後にアメリカのアフガニスタン戦争とイラク戦争反対論をぶちます。「中立は不可能だと思います、世界はすでに避けられない方向に乗り出しているからです。戦争がさらに進んでいます。子どもたちが飢えに苦しんでいます」と2005年のインタビューでジンは語りました。「中立でいるとは… なにが起きていても協力すること、それが起こることを許すことです。」

彼の傑作の著書「民衆のアメリカ史」は、より強力な勢力による抑圧と搾取に抵抗した平凡な人々の視点から、この国の歴史を形を変えて語ります。


エイミー・グッドマン(番組の司会者):今日はハワード・ジンを思い出して過ごします。ジンは100年前、1922年8月24日にブルックリンの労働者階級のユダヤ人移民の両親のもとで生まれました。2010年に87歳で亡くなりましたが、彼の本は世界中で読まれ続けています。

ジンは18歳で造船所の労働者として働き始めます、そのあと空軍に入り、第二次世界大戦では爆撃手として軍務に就きます。戦争の惨状に立ち会ったあと、ハワード・ジンは終生の反体制の人、平和活動家へと進みます。彼は公民権運動や他の社会的正義を求める苦闘で先鋭分子でした。歴史上、黒人女性のための大学であるアトランタのスペルマン・カレッジで教鞭をとります。彼は抗議する学生のために立ち上がったために不服従を理由に解雇されました。スペルマンにいる間、彼は学生非暴力調整委員会SNCCの執行委員会で力を尽くしました。

スペルマンを追い出されたあと、ジンはボストン大学の教授になります。彼は1967年に『ベトナム:撤退の論理』を出版します。無条件、即時撤退を要求する初めての戦争に関する本でした。1年後、彼とダン・ベリガン神父は北ベトナムが解放した最初のアメリカ人捕虜3人を迎え入れるために北ベトナムに行きました。それがマスコミに漏れる前、ダン・エルズバーグがペンタゴン・ペーペーズを隠す場所が必要だったとき、彼はハワードと彼の妻ローズ・ジンのところに行きました。

1980年、ハワード・ジンは傑作の著書、『民衆のアメリカ史』を出版します。その本は100万部以上売れ続けることになり、アメリカの歴史の見方を変えました。

1996年の番組の開始から亡くなるまで彼はデモクラシーナウ!の常連のゲストでした。本日の番組は、彼がわたしたちの消防署スタジオにやってきた2005年に行ったハワード・ジンのインタビューで始めます。


エイミー・グッドマン:ご一緒できて光栄です。

ハワード・ジン:わたしを招いてくれてありがとう。


➡(エイミー・グッドマン)あなたが教えていた場所、スペルマン、あなたは首になりました、そしてボストン大学ではあやうく首になりそうでした。


ハワード・ジン:ああ、わたしのことをトラブルメーカー呼ばわりしようとしているね?


➡スペルマンではなにがあったんですか?


ハワード・ジン:南部で続けている行動にわたしの生徒と一緒にかかわりをもちました、シットイン(座り込み)、デモ、ピケラインです。わたしは生徒を支持していました。そしてこれは非常に保守的な教育機関スペルマン・カレッジの最初の黒人の学長です。これらのことすべてで、わたしが生徒の仲間に加わっていることに彼はうれしくありませんでした。生徒がした多くのことに彼は愉快ではありませんでした。でも、彼はそれについてなにもできませんでした。でも、生徒たちが刑務所から戻り、そのあとキャンパスの規則や生徒たちに対する制限に反抗したとき、そしてわたしが彼らを支持したとき、それは手に余るものとなりました。


➡公民権運動時代の間ですか?


ハワード・ジン:そうです、公民権運動時代の間でした。そのキャンパスに関するパターナリズム(父親的干渉主義)と権威主義に反抗している生徒をわたしが支持しているという事実に彼は非常に不愉快でした。


➡女子生徒ですか?


ハワード・ジン:ええ、黒人の女子生徒でした。ご存じのように、この運動はスペルマン・カレッジというせまい修道院のような雰囲気から彼女たちを連れ出し、世界にその能力を発揮させました。


➡作家のアリス・ウォーカーはその生徒のひとりだったんですね?


ハワード・ジン:ええ、アリス・ウォーカーはわたしの生徒のひとりでした。マリアン・ライト・エデルマン、わたしの生徒のひとりは現在、ワシントンのChildren’s Defense Fund(子ども擁護基金)の会長です。わたしはスペルマンにいた生徒たちをとても誇りに思っています。そうです、マリアン・ライト・エデルマンは刑務所に入りました、アリス・ウォーカーは刑務所にはいりました、本当です。そう、それはすばらしい時代でした。


➡ところで、ボストン大学は何年も後のことでした。なぜそこから追い出されそうになったんですか?


ハワード・ジン:ストライキがありました。大学の学部(学部の教授団)がストに入りました。秘書がストに入りました。上出来のストの後、彼らは学部の教授団と和解しましたが、秘書とは和解しませんでした。それで、わたしと他の幾人かの学部の教授が秘書のピケラインを越えることを拒否しました。すると、わたしたち全員に終身在職権があったにもかかわらず、拒否したわたしたちのうち5人が解雇すると脅されました。そして、それは長い闘争でしたが、わたしたちは勝利しました。


➡あなたは第二次世界大戦で爆撃手でした。日本でもなく、ドイツでもなく、フランスのあちこちの最後の爆撃についてあなたは話しています。


ハワード・ジン:ええ。そうですね、わたしたちは爆撃任務は終わったと思いました。戦争はほとんど終わろうとしていました。これが1945年4月のことです。あなたがたは1945年5月初めに戦争は終わったと記憶しているかもしれません。これは戦争が終わる数週間前のことで、誰もが終わることを知っていました。そしてわが軍はフランスを超えてドイツに入りましたが、フランスの大西洋岸にある小さな町ロワイヤンにぐずぐずとどまるドイツ兵の小さな孤立地帯がありました。空軍はそこを爆撃することに決め、1200発の大型爆弾です、小さなロワイヤンの町の上空を飛行してナパーム弾を投下しました、わたしはそのなかの一機に乗っていました。それは、ヨーロッパ戦域で初めてのナパーム弾の使用でした。

わたしたちが何人殺したのか、わたしたちがしたことの結果として何人がひどいやけどを負ったのか、わたしたちは知りません。でも、わたしは、ほとんどの兵士がそうであるように無意識のうちに機械的にそれを行いました。わたしたちは正しい側にいて彼らは間違った側にいる、だからわたしたちはなんだってやりたいことができると考え、それで問題なし。あとでやっと、実際に戦後やっとです、ジョン・ハーシーからヒロシマについて読んだとき、ヒロシマの生存者の顛末や彼らが経験したことを読んで、やっと爆撃の人間への影響について考え始めたのです。爆撃手としてわたしは3万フィート、高度6マイルを飛んでいました、悲鳴や叫び声は聞くことができません、流血は見ることができません。そしてこれが近代戦争です。

実際には人間に何が起こっているかわかりません。すべてが遠くで行われます。これが、恐ろしい残虐行為が行われるのを可能にします。あの爆撃を振り返って思うのは、ヒロシマや他のすべての民間人の都市、ドイツや日本の都市での膨大な数の一般市民の殺害、東京の一晩で10万人の殺害を振り返って思うのは、第二次世界大戦のようなファシズムに対するいわゆるりっぱな戦争でさえも、戦争はどんな根本的な問題も解決しない、そして戦争は常に敵も味方も両者の側のすべての人に偏見をいだかせ、だめにする。戦争は両方の側のすべての人の精神と感情をだめにします。わたしたちは今、イラクでそれを経験しています、求められていない土地で占領軍であることによって兵士の精神がだめになっています。そして結果はひどいものです。


➡フランスの村にナパーム弾を投下したのを知っていたんですか?


ハワード・ジン:実際、それがなんだったかわたしたちは知りませんでした。でも、それはナパーム弾でした。


➡あなたはあとでその村に行きましたね?


ハワード・ジン:ええ、行きました。戦後10年ほど経った頃です。破壊され、現在再建された図書館に行き、生存者の記録や爆撃について書かれたものを掘り起こしました。そしてロワイヤンの爆撃についてエッセイのようなものを書きました。わたしの本『The Zinn Reader』や、『The Politics of History』に出てきます。でも、それはわたしにはとても重要な経験でした、いわゆる、りっぱな戦争に関して人をしらふにさせるとても卓越した教訓でした。


➡ダン・ベリガンと一緒に北ベトナムに行きましたね?理由は?


ハワード・ジン:理由?これは1968年の初めのことでした。テト攻勢の時期で、ベトナムの祝日、テト休日の時期でもありました。北ベトナムの上空で撃ち落とされた最初の3人の操縦士捕虜を釈放したいと北ベトナムが思い至ったのです。そして彼らは3人をアメリカ政府ではなく平和運動の管理下で解放したがった。詩人で神父のダニエル・ベリガンにはこれまで会ったこともありませんでした。彼とわたしは一緒にハノイに行きました、北ベトナム人によって解放された3人のアメリカ人操縦士を受け取るためです。それからわたしたちはハノイとその周辺地域でしばらく過ごしました、爆撃された地域を訪れ、真夜中に空爆された小さな村を訪れました、そこは軍事標的の可能性のあるどこからも非常に遠く離れていました。わたしたちは爆撃されていました、ベトナムは毎晩爆撃されていました。毎日、わたしたちは防空壕に入りました。毎晩、ダニエル・ベリガンはその日のできごとについて詩に書きました。


➡ベトナムやイラクにアメリカ政府に背いて医薬品を届けたり、援助しに行くような人々に対してはなんと言いますか?裏切り者などと呼ばれます。


ハワード・ジン:愛国心を政府への服従と定義するなら、あなたは一種の全体主義の原則に従っているとわたしは考えます。政府があなたにしろと命じることをするのが全体主義国家の原則だからです。そして民主主義は政府が国民の道具であることを意味します。これが独立宣言です。政府は、権利、生きるための平等の権利、自由、国民のしあわせの追求を保つために設立された人為的な存在(統一体)です。政府がそれらの権利を侵害するとき、その政府に逆らうのは国民の義務です。それが愛国心です。


ハワード・ジン、あなたの自伝に『You Can’t Be Neutral on a Moving Train』(動く電車の上で中立者ではいられない)と名づけました。なぜですか?


ハワード・ジン:それはですね、自分のことからうまく手に入れました。どの授業でも最初に言ったものです。生徒は、先生がえこひいきのない中立者でいる授業の一員ではないという事実について、わたしは生徒に正直でいることを望みました。わたしは中立性を信じていません。中立は不可能だと思っています、世界はすでにある特定の方向に動いているからです。戦争が起こっています。子どもたちが飢えに苦しんでいます。そして中立者でいること、中立のふりをすること、そのような状況ではっきりした立場をとらないことはなんでも起こっていることに協力すること、それが起こることを許すことです。わたしは協力者になりたくありません。わたしは歴史のなかに入り、歴史の一部になることを望みました。わたしの生徒に果たすべき役割を演じることを望みました。わたしの経歴(過去のいきさつ)が平和のために、人種的平等または性的平等のために介入することを望み、はっきりした立場をとることを望みました。わたしの生徒には、最初から、動く電車の上で中立者でいることはできないことを知って欲しかったのです。


➡1914年コロラド州の民兵が石炭ストライキの労働者を銃で撃ち殺したことを歌ったウッディ・ガスリーの“ラドロー大虐殺(Ludlow Massacre)”

ハワード・ジンはかつて、この歌を聞いたことが彼には決定的でほとんどの歴史書から除外された歴史を調査(情報収集)して語るよう彼を鼓舞したと言いました。

2001年10月21日、ハワード・ジンはバーモント大学バーリントン校ですばらしい演説をしました。これは911の攻撃からわずか1カ月後でアメリカがアフガニスタンに侵攻して2週間後のことでした。アメリカ史上最長の戦争が始まりました。アメリカがついにアフガニスタンから撤退し、タリバンが支配権を取り戻したのは1年前の今月でした。下記は、2001年のハワード・ジンです。


ハワード・ジン:絶対にテロは終わらせないといけません。でも爆撃すればテロが終わるのでしょうか。見極めないといけません。

爆撃しても、爆撃された街で起きてることはあなたには何も見えません。悲鳴も聞こえません。

わたしたちはその光景をニューヨークで見ました。それはわたしたちをぞっとさせ、ひどいショックを受けました。人々がパニックになり、走って逃げるのを、あの爆発、巨大ながれきの山から逃げ惑うのをわたしたちは見ました。この人たちは実在する現実の人でした。でも、わたしたちが他国を爆撃した場合、その人たちはわたしたちにとって実在する人間ではないのです。

ニューヨークで起きた最初の恐怖を乗り越えたあと、わたしはあることを考えました、「ヘイ、わたしがヨーロッパで爆撃していたときはこんな風だったに違いない」と。あの人たちはわたしには取るに足らない人だったからです。そして「たぶん、このテロリストにとってはそれが目的だった」と思いました。彼らには使命があります。彼らには目標があります。テロリストにとってニューヨークの犠牲者は人間ではありません。そして世界の他の地域の人々は、わたしたちにとって人間ではありません。

この経験から得られるものがあるとすれば、それはつまり、アメリカとわたしたちの政策を吟味することになります。

事実を明白にすること、説明することは正当化することではありません。でも、なにも説明したくないとすれば、なにも学べません。つまり、正当化せずに、理解しなければならない、説明しなければなりません。

このテロの根本的原因に何があるか、見つけ出せるものなら掘り下げて考えてみる必要があります。不合理な考え、危険な感情、他にもテロの根源には何かがあるからです。この場合は殺人的で狂信的な感情でした、でも彼らはただの狂人ではありません。

アメリカの外交政策の結果として苦しんでいる人々が世界には何百万人もいる。こう言うと、わたしが誇張していると思うかもしれません、でも、いるんです。そして、ブッシュ大統領は記者会見で「なぜこの人たちが我々を憎むのか理解できない」というようなことを言いました。「我々は善人」と彼は言いました。まあ、時にはアメリカは善人です。アメリカにはいいところがたくさんあります。と同時に、アメリカが本当に邪悪で何百万人もの人々に死をもたらす政策を実行してきた時がたくさんあります、不幸なことに多すぎるくらいあります。


➡番組は2006年にジンがウイスコンシン州マディソンで行ったスピーチを特集しました。彼が奨学金に対する生涯の貢献に対してヘブン・センター(Haven Center)賞を受賞したときのものです。彼の講演のタイトルは『歴史の活用とテロとの戦い』です。


ハワード・ジン:先日、床屋と話していました、床屋とはいつも世界の政治について議論します。彼は、ほとんどの床屋そうであるようにまったく政治的に予測不可能です。彼は言いました、「ハワード、あなたとわたしは多くの事柄で同意しないが、“戦争はなにも解決しない”というのには同意する」とね。「そうかい。」人々がそれを理解するのは難しくありません。

繰り返しますが、歴史は役に立ちます。わたしたちには戦争に続く戦争、そのまた戦争に続く戦争の歴史がありました。戦争はなにを解決しましたか?戦争はなにをしましたか?りっぱな戦争、わたしが志願した戦争、わたしが爆弾を投下した戦争、第二次世界大戦さえもです。マーシャル将軍からわたしに宛てた、そして他の16万人に宛てた手紙を受け取りました。「我々は戦争に勝利した。新しい世界になる」と。もちろん、それは新しい世界ではありませんでした。戦争に続く戦争、そのまた戦争に続く戦争でした。

戦争についての考え。第一に戦争はそれに従事するすべての人を堕落させます。わたしたちが第二次世界大戦でしたように善人として始めます。彼らは悪者です。ファシストです。そして戦争が進むにつれて善人は悪人のようにふるまい始めます。これはペロポネソス戦争までさかのぼることができます。善人であるアテナイ(アテネ)人、悪人であるスパルタ人までさかのぼることができます。そしてしばらくすると、アテナイ人はスパルタ人のように無慈悲で冷酷になります。

そしてわたしたちは第二次世界大戦でそうでした。ヒトラーが残虐行為をした後、わたしたちは残虐行為を犯しました。日本で60万人の一般市民を殺害し、ドイツでもおそらく同数の一般市民を殺害します。この人たちはヒットラーでも、東条英機でもありません。ただの普通の人でした。そしてわたしは結論に達しました、戦争はすべての人に偏見を抱かせてだめにすると。

これは心に留めておくべき重要なことです、「我々はサダム・フセインを厄介払いする(殺す)つもりだ」と言って暴君との戦争を始めるとき、それはもちろん、ばかげた考えです。サダム・フセインが自国民を専制君主として支配したことをわたしたちの政府は気にしましたか?わたしたちは彼が専制君主として支配し虐げるのを助けました。わたしたちは彼を助けてクルド人を毒ガスで攻撃させました。いやはや、わたしたちは彼を助けて大量破壊兵器を蓄積させました。

ドイツでわたしたちが殺した人々はヒトラーの犠牲者。日本でわたしたちが殺した人々は大日本帝国軍の犠牲者でしたよね。そして戦争で亡くなるのが軍人ではなく民間人であることがますます増えています。第一次世界大戦では民間人の死者1人に対して軍人の死者10人でした。第二次世界大戦では軍人と民間人の死者が半々でした。ベトナムでは70%が民間人、30%が軍人です。それ以降の戦争では、民間人の死者が80%、85%です。

数年前にわたしはジーノ・ストラーダ(Gino Strada)というイタリア人の戦争外科医と友だちになりました。彼は10年、15年を費やして世界中の戦争犠牲者に外科治療(手術)を行ってきました。彼はそれについて本『Green Parrots: Diary of a War Surgeon』(緑のオウム:戦争外科医の日記)を書きました。イラク、アフガニスタン、そしてどこでも、彼が手術を行ったすべての患者のうち85%が民間人、その三分の一が子どもだったと言っています。戦争について教えられたことがなんであれ、それは常に子どもたちに対する戦争です。子どもたちが大量に死ぬ人たちです。

さて、第一次世界大戦後にアインシュタインは「戦争は人間らしく情け深くなりえない。廃止するしかない」と言いました。戦争は廃止しなければなりません。30年かかりましたが、奴隷制は廃止されました。

歴史から学べることの一つは、権力者によって押しつけられた事態の歴史だけではないということです。歴史は抵抗の歴史でもあります。それは何十年にもわたって専制政治に耐えてきた人々の歴史ですが、最終的に立ち上がって独裁者を打倒した人々の歴史です。これはフィリピンで、イエメンで、ネパールで起こっています。街頭に何百万人もの人々がいる、そして次には国の支配者はどかなければなりません。ですから、これがこの国でわたしたちが目指していることです。

わたしたちがすることはすべて重要です。ピケライン、請願書や手紙、市民的不服従の行為、小さなことすべてがです。たとえ現時点では無駄に思えても、それが変化が実現する方法だからです。何百万もの人々がわずかなことをするとき、変化が実現します。歴史のある時点でそれがいっしょになり、なにか喜ばしいことやなにか重要なことが起こります。


➡彼が亡くなる前年、2009年5月にハワード・ジンが番組に参加しました、彼が『A Young People’s History of the United States』のペーパーバック版に乗り出したときでした。コロンブスや他の昔からの英雄に関する彼の形を変えた語りが子ども向きだと思うかどうか彼に尋ねました。


ハワード・ジン:何度も何度も人々がその質問をしたのは事実です。コロンブスは偉大なヒーローだったと子どもに語るべきでしょうか、コロンブスはインディアン(アメリカ先住民)をずたずたに切断し、彼らを誘拐し、ゴールド(金)を求めて彼らを殺害しました。偉大な大統領のひとりとして引き合いに出されるセオドア・ルーズベルトは軍事的手柄が大好きで、フィリピンで大虐殺を犯したアメリカの将軍を祝福した、実は戦争挑発人(戦争屋)だったと人々に語るべきでしょうか?若者にそう教えるべきですか?

若者には正直であるべきだというのが、答えだと思います。若者を欺いてはいけません。わたしたちの歴史について正直であるべきです。そしてアンドリュー・ジャクソンやセオドア・ルーズベルトのような昔からの英雄をへこませる(謙虚にさせる)だけでなく、既存のものに代わるヒーローを若者に与えるべきです。ルーズベルトの代わりにマーク・トウェインについて語ります。マーク・トウェインはトム・ソーヤやハックルベリー・フィンの作家としてだれもがおぼえます、でも、学校でわたしたちは彼が反帝国主義同盟の副大統領であることを学びません。セオドア・ルーズベルトをフィリピンでのこの虐殺を承認したとしてマーク・トウェインが非難したことは教えられていません。

わたしたちはヘレン・ケラーのような理想の人物を若者に伝えたい。そしてわたしはヘレン・ケラーについて学んだのをおぼえています。ヘレン・ケラーについて、ハンディキャップを克服して有名になった障がい者だとだれもが知っています。でも、わたしたちが『A Young People’s History of the United States』のような本を書く時に知って欲しいこと、ヘレン・ケラーが社会主義者だったということを、人々は学校で学びませんし若者は学校で学びません。彼女は労働組合のオルグでした。彼女についての演劇を上演している劇場をピケで囲んでいたピケラインを越えることを彼女は拒否しました。

そして、アメリカ史には既存のヒーローに代わるこれらのヒーローがいます。Fannie Lou Hamerやボブ・モーゼスがいます。公民権運動のヒーローたちがいます。『Young People’s History』には、バスから降りるのを拒否したアラバマ州モンゴメリーのバスに座っていた若きヒーローがいます。それはローザ・パークスの前でした。ローザ・パークスは席を立つことを拒否したことで当然有名ですし、彼女は逮捕されました。それがモンゴメリー・バス・ボイコットの始まりでしたし、また南部の大きな運動の始まりでした。ですが、この15歳の少女が最初にそれをやったのです。わたしたちはこれらの無名の人々の多くをなんとかして注目の最前線に戻して、「これが生き方だ」と言って、若者を激励しようとやってみています。


https://www.democracynow.org/2022/8/24/remembering_howard_zinn_on_100th_birthday