見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2007/09/06

ダージリーン特別急行列車


ローリングストーン誌のこの秋の映画新作案内ーその1
◇The Darjeeling Limited(ダージリーン特別急行列車)
おかしな3人兄弟、オーウェン・ウィルソン、ジェイソン・シュワルツマン、エイドリアン・ブロディが父の死後、インドに行きます。ビッグにはなっても、ここ最近の作品に「天才マックスの世界」ですっかり虜になっためざましい「おかしさ」が欠けていて、ちょっと寂しかったファンとしては、「天才ウエス・アンダーソンの世界」が全快!といった予告編にいまから興奮しています。アメリカ公開は9月29日。日本ではいつになるのかなー。
以下、ローリングストーン誌の映画評より

告白する:この映画にほれたよ。友人ロマン・コッポラやジェイソン・シュワルツマンと一緒に脚本を書いた、ウエス・アンダーソン監督のこれまでの作品、ボトルロケット、ラシュモア(天才マックスの世界)、ロイヤル・テネンバウムズ、ライフ・アクアティックでも、最高に自信のある円熟した作品だ。
ストーリーの外観は、3人の裕福な兄弟が企てるインドへの精神的オデッセイ(波瀾万丈の放浪の旅)、映画はやたらと愉快だ。ヒマラヤの麓で尼僧と一緒に働いている母親、アンジェリカ・ヒューストンを見つけるためインドをずっと列車に乗って旅するのが3人の目的だ。でも彼らはもっと激しいもの、父の死とずっと家族をばらばらにさせておく影響力に、対処している。
君は笑う、時々、泣き叫ぶのを抑えるためにだ。
オーウェン・ウィルソン、ジェイソン・シュワルツマンはアンダーソンをよく知るベテランだ。ニュアンスをことごとくつかむ方法をよく理解している。だが、映画がメランコリーと苦悩へともっと意識の底に進ませるとき、思いがけない発見がエイドリアン・ブロディだ。悲劇によって少し気のふれたブロディ演じる人物は、言葉にはしないが、「しばらくの間、自制してくれ」と求める。
ダージリーン・リミテッドは今年のベスト映画のひとつにして余りあるほどだ。自制したくなる映画だよ。

写真はウエス・アンダーソン監督です。

2007/09/03

バワリー街のシットホール


ローリングストーン誌の「ロックデイリー」によると、ニューヨークパンク発祥の地、CBGB創始者のヒリー・クリスタルが肺ガンとの闘病後に昨日マンハッタンで亡くなった。75歳だった。当初は、カントリー、ブルーグラス、ブルースなどを特別公演するためクリスタルは1973年バワリーのバーをオープンした。意志の強いイーストヴィレッジのクラブは70年代のパンクロックの活動の中心に発展した、その後、90年代後半には新生バンドが才能を特に目立つよう示すためのスポットへと徐々に進化した。ここ数年クリスタルは彼の大切なクラブをオープンさせておくため、誰もが知っている苦闘に従事させられたが、彼と彼の地主は結局、同意に至ることはなかった。2006年10月15日、パティ・スミスが最後のステージを降りた後、クリスタルは苦心してバーを解体した、そして記憶すべきことの最も貴重な片鱗をラスベガスまで船で運び、そこで彼は行為の現場(悪評プンプンの汚いバスルーム=トイレなどのすべて)を再開しようと計画した。
数ヶ月前にローリングストーン誌はクラブの歴史についてクリスタルと話をした。「大金を稼ぐ目的でこれをやったことは一度もない」と彼は語った。「オレが発見したか、発見されたか、または互いに発見しあったのが、この新しいミュージックだよ。そしてオレはこの人たちや彼らがやってたことにほれるようになった、もちろん他の連中がやってたことは嫌いだ。特にこの独創的ミュージックを精力的にやっているこの連中に機会を与えることで、とてものめり込むようになる。」
以下は、何年にもおよび、クリスタルのクラブでチャンスをもらうことで得をしたアーティストの追慕の情だ。

デボラ・ハリー(ブロンディ):「ヒリーが逝ってしまってとても残念。彼は何年もブロンディやニューヨークのミュージックシーンには大きな助けだった。彼のクラブCBGBはニューヨーク伝説とロックンロール史の一部になっている。」

パティ・スミス:「ヒリーの死が物事をどっと蘇らせる。クラブでの最後の夜、私たちが彼を大事に思っていることが彼にはわかった。彼が立ち上がると私たちは彼に挨拶した。ある意味でそれはいけすかないから、私はロマンチックにしないようにした。音はうんざりするようなものだったし、常に人が取り乱していて、グラスが割れ、人々が吐いていた、それに裏ではネズミが走りまわっていた、でもそれは私たちのシットホールで、最高に重要なことだった。私はいろんなところで演奏してきている、そこは私たちの場所だ、みたいに感じて演奏した唯一の場所だった。彼はコミュニティを有名にしていた。世界のどこにいようと構わない、人々にはCBGBのTシャツがある。市場で売るとか買うとかってことではないの。CBGBは単にヒリーとか、そこやニューヨークシティで演奏した人たちに関するものではなくて、若者の自由を象徴した。自由を意味する点において、私にはCBGBの名はスラングになってもおかしくない。ヒリーは私たちに無条件の自由を提供してくれた。」

スティーヴン・ヴァン・ザント(2005年8月、NYワシントンスクエアーパークでのCBGBを救う慈善公演のバックステージで語る):新しいロックンロールバンドをサポートするというただひとつの理由で、ボクらはラジオ番組アンダーグラウンドガレージでスタートした。それがボクらが5年間やってきたことだ。CBGBは31年間ずっとそれをやってきている。新人バンドとして今でもクラブで演奏はできる、クラブの半分が人に負担させるからね、ほんとクールじゃないよ。新人バンドでラモーンズと同じステージに立てる。こいつはほんとクールだ。これをやりに日本やニュージーランドからやってくる。CBGBは歴史に残る現場ってだけでなしに、CBGBはボクに関する限りでは神聖な現場だよ。戻ってこない。」

トーキングヘッズのドラマー、クリス・フランツ(同じくCBGBを救う慈善公演のバックステージで語る):「ボクたちはCBGBが大好きだし、CBGBとヒリー・クリスタルがバンドとしてやる機会をボクたちに与えてくれたことすべてにとても感謝している。言わせてもらえば、CBGBはボクたちのバンドが生まれたところだった。それについてセンチになりすぎないで、ニューヨークにコネがなく経営の手腕がなくエージェントがいない若いファンには今でも実際すばらしい場所だと思う。CBGBに行けばそこでギグや演奏がやれるし、たぶん彼らもすばらしい成り行きになるかもしれないだろ。たとえ商売を主眼とした方向でならなくても、少なくともアーティスティックな方向ではなれる。彼らにはそれをする自由がある。ボクたちがあそこで演奏を始めたとき、誰もいなかった、たぶん10人くらいかな、そのうち8人はあそこで働いていた。」

B52のフレッド・シュネイダー:「CBGBがロッククラブの先端状態。演奏しなければならなかった当時に後戻りしろよ。ミュージックヴィデオはなかった、単独でやらなければならなかった、ラジオは曲をかけてくれなかった。CBGBはまさに無秩序な大混乱のおもしろみだった、世界で最悪のトイレとぴったり合体した、くすぶった酔いどれロックンロール。」

写真は、CBGBの前に立つヒリー・クリスタルと愛犬。なつかしいな、あの暗さといかがわしさと、臭いと。

2007/09/02

イーノとラノアがフェズでセッション


ローリングストーン誌の「ロックデイリー」8月29日付より
喝采して迎えられるアーティスト&プロデューサーのブライアン・イーノとダニエル・ラノアが、2004年の「How to Dismantle an Atomic Bomb」に引き続いてU2との次のアルバムの製作を開始していた。さあ、1984年のアンフォアゲッタブルファイアー、1987年のヨシュアトゥリー、1991年のアクトンベイビーが含まれる、U2の厄介なアルバムをプロデュースしてきたダニエル・ラノアからの掛け値なしの報告です。
「今回、ボクたちは作曲家として招待されている」とラノアは話す。「イーノとU2と3曲セッションをやった。1曲はモロッコのフェズで、2曲はフランスで。うまくいったよ、すごい。11月にボクたちは再編成されている。」彼は「レコードはまあそれ自体が招いたこと」だと付け加える。ラノアはやがて公開されるドキュメンタリー映画「Here Is What Is」にモロッコのセッションの場面を含めているが、そのシーンは映画の中で効果的だ。「意味をなしてるように思われてね、でもあの連中につけこみたくない。彼らはとてもよくしてくれた」とラノアは話す。「ラノア、君はレコーディングでボクらを見せることになている、ボクらはまだレコードを出してもいない、よしてくれって彼らは言っている、頼む、どんなことも見捨てたりしない、それにまたボクらはいっしょにやって25年になる、ボクにコインを投げろってボクは言った(笑)。」

写真はU2のボノとエッジとラリー

2007/09/01

go fuck yourself !


最近ケーブルTVで、ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞し、アカデミー賞にもノミネートされた2004年の作品「イノセントボイス 12歳の戦場(Voces Inocentes )」を見た。
無名の俳優オスカー・トレスが、内戦で血なまぐさいエルサルバドルの村での少年時代の体験をつづった脚本を、メキシコ出身のルイス・マンドーキ監督が映画化したものだ。メキシコの映画会社で製作されたのは、内戦時の政府軍側が今も政権を握っており、エルサルバドルでは製作も正式な公開や販売も認められなかったという背景がある。
エルサルバドルの内戦には政府軍側にアメリカ政府の資金が大量に流れた。資金ばかりか、ヴェトナム経験者の手荒な軍人らが手ほどきした、ひどい拷問・殺人・レイプで悪名を馳せる「死の部隊」の存在がある。政府軍に参加するな!と人々にミサで呼びかけた直後に暗殺されたロメロ大司教のことも頭に浮かぶ。オリバー・ストーン監督の映画「エルサルバドル」にはこのロメロ暗殺にふれる場面がある。
脚本を書いたオスカー・トレスは祖国に家族や友人たちを残してアメリカに渡ってしまった自分にずっと罪悪感を感じていたという。
最近見た、クロアチアの戦争でひどい拷問とレイプを経験した女性を扱う映画「あなたには言える秘密のこと(この邦題はなんとも甘ったるい)」でも言っているが、生存者には肉体の傷手にまさるこころの傷手でも、生き残ったことを恥じる気持ちが一番の重荷だということ。この映画の犠牲者は優勢だったセルビア人の民族浄化とかの犠牲者ではない。同じ民族のクロアチア人兵士らによって拉致され、ホテルに監禁されてレイプやひどい拷問を受けた。国連がやってきたから解放されると思ったら違った、彼らもまた耳元で「すまない、すまない」と何度もささやきながらこれを行った。つまり、どういう戦争であれ、戦争という情況が人間をモンスターに変えてしまうということだ。

◇エルサルバドルは1969年サッカーワールドカップ予選の試合判定をきっかけにホンジュラスと「サッカー戦争」を起こしたことでよく知られる。この中米5カ国中で最も小さな国は、地主が小作人を支配する社会体制で、多くが外国、特にホンジュラスへ出稼ぎに出る。だが「サッカー戦争」を契機にホンジュラスはエルサルバドル労働者の受け入れを拒否。国内は混乱に陥り、ゲリラ活動が頻発する。1979年ニカラグアでサンディニスタ革命が起こると国内のゲリラ各派が触発され、1980年統一ゲリラ組織「FMLN ファラブンド・マルティ民族解放戦線」を結成。ソ連、ニカラグアの支援で勢力を拡大する。これに危機感を持ったアメリカ政府はエルサルバドル政府に軍事支援を開始。国内は10年におよび内戦状態となる。1992年国連の仲介で停戦に至るまでに7万5000人が死亡。特に政府軍が小作人を標的に行った2度の大虐殺はメディアに取り上げられ世界中から非難の声があがった。和平後ゲリラ組織は解体され政党となるが、依然として国内情勢は不安定のままだ。

◇エルサルバドル:1980〜1994
人権、ただしワシントン流 by ウィリアム・ブルム
エルサルバドルは、1960年代まで、中米で最も裕福であると言われたが、14家族と言われる大富豪が全国土の60%を所有し、政治・経済・社会を支配する状況が続き、貧富の差は極端だった。1970年代には、農民組合や共同組合、労働組合などの草の根の組織が発達するが、これに対し、米国の支援を受けた「死の部隊」が虐殺と過酷な弾圧を加えてきた。こうした状況下、カーター米大統領にエルサルバドル独裁政権への軍事援助を行わないよう要請したオスカル・ロメロ大司教が1980年暗殺され、これを機に、すでに活動していた反政府ゲリラの武装闘争が拡大して内戦に突入する。
1980年代には、「司祭を殺して愛国者になれ」というスローガンのもと、民衆組織に参加した多くの人々とともに、カトリック教会関係者が標的とされた。1980年代の政府軍と反政府ゲリラの内戦で、人口500万人の国で死者7万人、国内外の難民は10万人に達した。1992年、両者は和平に合意。1994年には議会・大統領選挙が行われ、「死の部隊」と関連を持っていたARENA(民族主義共和同盟)が政権党となる。以来、大統領はARENAから出ている。元ゲリラの対立政党FMLNもかなりの議席を占める。現在も、経済改革・農地改革は進まず、貧しい人々は貧しいままで、人権侵害も極めて悪い状況にある。

◇自由の名のもとに犯される犯罪
ZNet 14 October 2004 by マーク・エングラー
ディック・チェイニーのエルサルバドル
2004年10月5日、チェイニーvs.エドワーズの論争でチェイニー副大統領が多数の歪曲を行なったのを私たちは承知している。けれどもチェイニーが1980年代のエルサルバドルの内戦をメチャクチャねじ曲げたことには、あまり多くの注目が注がれなかった。チェイニーがエルサルバドルの内戦を現在のアフガニスタンの困難に類するものと述べたとき、ラテンアメリカ問題の研究者はひどくショックを受けた。
「20年前、エルサルバドルが同様の状況にあった」とチェイニーは言う。「ゲリラが国の約3分の1を支配し、7万5000人が死んだ そして自由選挙を行なった 議会を代表して私は選挙監視員としてそこにいた テロリストたちが投票所にやってきて発砲したが、彼らがいなくなると有権者はすぐに戻ってきて並び、投票権の拒否など受け入れなかった そして今日、エルサルバドルは自由選挙のおかげではるかによい状況にある これはアフガニスタンにもあてはまる そしてイラクにもあてはまる」
7万5000人の人々はゲリラによって殺されたのではなく、チェイニーが支持したエルサルバドル政府とその手先である準軍事組織「死の部隊」によって殺されたという、極めて重要な関連事実を副大統領は省いた。次に重要な関連事実として、チェイニーが言及した1984年の選挙は、イカサマ選挙というので広く行き渡っていた。純粋な反対派候補の多くが殺されており、また、米国は結果を操作するのに1000万ドルをつぎ込んでいた。これが「民主主義輸出」のモデルであると言うのは、ネオコンたちがわれわれの前に何を準備しているかについて、極めて多くを語っている。
実際のところ、エルサルバドルが今日はるかによい状況にあるとすれば、それは政府に反対する運動が続いているからだ。1992年の和平協定の一環として設置された国連真実委員会は、レーガン一派が当時強固に否定し、忘れ去ってしまいたがっている事実を明確にしている。同委員会は、人権侵害の5%ほどはFMLNであるが、90%はエルサルバドル軍が行なったとしている(残りの5%は実行者が不明)。
この報告が公開された際、ニューヨークタイムズは次のように述べている:
「国連真実委員会は、レーガン政権が曖昧にしようとした真実をはっきりと示した。自由の名のもとで、エルサルバドル軍によって恐ろしい犯罪が行われたことである。報告では、1989年に6人のイエズス会士を殺すよう命じたのが元エルサルバドル国防相であったことを確認した。また、4人の米国人修道女殺害を隠蔽しようとした者の一人は別の国防相だったとも述べている。右派の政治家でジェシー・ホルムズ米上院議員の英雄でもあるロベルト・ダビッソンがロメロ大司教暗殺を命じたことも明らかにしている。」
ニューヨーク・タイムズのコラムニスト、アンソニー・ルイスはこう結論する:「米国は、殺人者たちが支配するエルサルバドル政府を支持するのに60億ドルをつぎ込んだ。われわれ米国がこれら殺人者に武器を与え、兵士たちを訓練し、その犯罪を隠蔽したのである。」
2004年のブッシュの対抗馬ジョン・ケリーは、「トンキン湾決議を振り返ってみると、カンボジアにいた兵士たち、遺体を数えた歴史、ベトナムの歴史の誤った解釈を振り返ってみると、そしていま中米の闘争を私たちがどのように解釈しているかを知り、CIAの関与を検討し、港に米国が機雷を設置したこと、コントラに資金を提供したことを考えてみると、私たちの歴史においてカンボジア・ベトナムに関与した時期と、現在中米に介入している時期との間には、直接の避けがたい並行関係が認められる。」と言っている。
ネオコンが言葉の意味をねじ曲げ続けても、並行関係は続いている。チェイニーが米国の中米介入の記録を例としてあげたことから、今後も長く「自由の名のもとの犯罪」を私たちアメリカが犯し続けることが確実にわかる。

チョムスキーが確かこんなことを言っていました。アメリカの目的は民主主義の実現などではなく、アメリカに都合のいい政府の実現だ。国民にとってよい政府はアメリカにとって都合が悪い政府。そういう政府をアメリカはたたく。中米の政策はまさにそうだった。ニカラグアのサンディニスタ政権は大多数の国民の支持を得て民主的プロセスを経てできたにもかかわらず、これはアメリカの言う民主主義ではなかった。国民に平等な政策が功を奏してきたと見るや、米国がたたきつぶした。

写真は、議会で相手に「クソったれ!」と言ったチェイニーの風刺マンガ 彼はよくクソったれ!と声を上げるようです。銃もよくブッぱなすようですし。