ベイルートを愛した記者
9月28日東京新聞「本音のコラム」で諸岡カリーマさんがヒズボラについて書いている
ヒズボラは「イスラエルによるレバノン侵攻と占領に対する抵抗運動として1980年代に誕生した。イスラエルの援護を受けたレバノンのキリスト教右派民兵がパレスチナ難民キャンプを襲撃し、2000人から3500人のパレスチナ人やシーア派を虐殺した頃だ。最終的にヒズボラはイスラエルを南部の占領地から撤退させることに成功した」
そしてヒズボラが昨年10月7日以来ガザの大虐殺を止める名目でその威力に乏しい攻撃をイスラエル北部に続けるのは、「アラブの春で勃発したシリアの内戦でアサド独裁政権側について参戦したことで著しく傷ついたアラブ世界における人望を取り戻す意図もあろう」と続ける
諸岡カリーマさんのかつてヒズボラ擁護のレバノンの友人も今は、「祖国よりイランに忠実な、病魔のごとき集団。再び勝手にレバノンを戦争に引きづり込もうとしていると酷評」 そして別の友人は「26日、従姉妹がイスラエルのミサイル攻撃で死亡した。ヒズボラとは無関係のキリスト教徒で、幼い子どもの母親だった」と伝える
レバノンはずーっとずっと前からイスラエルに侵攻され、爆撃され、避難を余儀なくされ、脅され、苦しんできたということ
わたしはベイルートと聞くと、時の賢人たちが集うしゃれた街というイメージで、どうしてもジャーナリストのロバート・フィスクのことを想い出す
アイルランドとイギリスの市民権を持ち1976年からベイルート駐在特派員だった彼は2020年10月30日にダブリンの病院で亡くなる
彼の記事を読むたびに、彼が描くベイルートの街角や通りのカフェから漏れてくる人々の歓談する声、料理の匂いといったものに強く惹かれたわたしは、いつか行ってみたいと思った
これより前のこと、リヨンで異国の友人から「イスラムの国に行くべき」だと強く言われたとき、わたしの頭のなかにベイルートの名はなかった
下記はロバート・フィスクを追悼する友人、仲間たちの声である
ジョン・ピルガー(ジャーナリスト):「ロバート・フィスクが亡くなった。最後の偉大な記者の一人に心からの敬意を表する。"controversial "(異論の多い、物議をかもす)という真意をはぐらかす言葉は、彼が名誉をかけていた新聞『インディペンデント』にも出てくる。彼は時代の流れに逆らい、見事に真実を語った。ジャーナリズムは最も勇敢な人を失った。」
ジェレミー・コービン(イギリスの元労働党党首):「ロバート・フィスクの死を聞いてとても悲しい。中東の歴史、政治、人々について比類のない知識を持つ素晴らしい人物を失った。」
ヤニス・ヴァルファキス(ギリシャの元財務大臣):「ロバート・フィスクの死によってわたしたちは、それがなければ部分的に盲目となるジャーナリストとしての目と、それがなければ真実を表現する能力が低下するジャーナリストのペンと、それがなければ帝国主義の犠牲者に対する共感を欠くことになるジャーナリストの魂を失った。」
クリスチャン・ブロートン(インディペンデント紙マネージング・ディレクター):「大胆不敵で、妥協せず、そして断固とした態度であらゆる犠牲を払って真実と現実を明らかにすることに徹底的に取り組んだロバート・フィスクは同世代で最も偉大なジャーナリストだった。彼が『インディペンデント』で灯した火はこれからも燃え続けるだろう。」
2006年7月23日付「インディペンデント・オン・サンデー」にはベイルートに30年ちかく住み、ベイルートの街をこよなく愛した国際特派員ロバート・フィスクによるイスラエルのレバノン侵攻(7月戦争、第二次レバノン戦争とも呼ばれる)が始まる最初の1週間の日記が掲載されている。残念ながらインディペンデント紙の元記事は現在見ることができない(下記、小林恭子さんのブログ「英国のメディア・ウォッチ」参照https://ukmedia.exblog.jp/4210384/)
2006年7月16日 土曜日
この戦争でミサイルを実際に見たのは今日が初めてだった。
今朝、わたしと運転手のアベドはミサイルが雲を突き抜けるのを見た。わたしたち二人はレバノン南部の郊外から命からがら逃げた。
道の角を曲がったところで爆発が起き、さっきわたしたちがいたところから灰色の煙がもうもうと出ていた。わたしたちがクルマから見たイスラエルのロケット弾から走って逃げようとしていた男や女たちはどうなったか?わからない。
夜中に目覚めると、鳥の鳴き声や地中海の波の音、椰子の木がゆらぐ穏やかな音が聞こえる。
夕方、買い物に出かけた。アベドがクルマを止めたとき、後ろにいた4輪駆動車に乗っていた男性がクラクションを鳴らした。わたしがクルマから出ると、男性は声を出さずに「ケス・ウチャタク(お前の姉さんをファックするの意味)」と口パクした。この戦争が始まって侮辱的な言葉を発せられたのはこれが初めてだった。
レバノン人は通常、外国人に対して侮辱的な言葉を発したりはしない。彼らは礼儀正しい。わたしはレバノン人がやるように、「どうかした?」というしぐさをしてみせた。男性は走り去るだけだった。とにかく、わたしには姉も妹もいない。
2006年7月17日 日曜日
携帯電話がインコのように鳴り響く。ベイルートあるいはレバノンを去るべきかどうかについて聞いてくる友人からの電話が多い。南部郊外のヒズボラがいるあたりに落とされる爆弾の音が聞こえる。
友人たちのことを思うと悲しくてならない。その多くがこの24年間で4回、国外に退去しなければならなかった。家政婦のフィデレがおびえている。ベイルートのキリスト教地域からわたしの家に来るのが危険すぎるというのだ。わたしの家の玄関から400メートル離れたところにある灯台の上部をイスラエル軍が爆破してしまったからだ。アベドに迎えに行ってもらうことにする。フィデレはアフリカ西部トーゴ共和国出身で、とてつもなくおいしいピザを作る。
2006年7月18日 月曜日
午前中、わたしの友人でもあるレバノン軍の将軍に電話をすると、軍関係者からわたしの居場所を確認する電話があった。駐車場の場所を確認するのに1時間かかったようだ。また電話があり、ヒズボラが駐車場を使ってイスラエルの戦艦を攻撃する事態が起きないようにわたしのアパートの隣に人員運搬車を配置させると言われた。空っぽになったアメリカ人コミュニティーのための学校が近くにあり、レバノン軍はわたしたちを守ろうとしていた。
2006年7月19日 火曜日
イスラエル軍はシーア派が住むレバノン南部郊外のアパート群を破壊している。これにより海上に雲の傘が恒常的に発生している。数万単位のシーア派ムスリムの市民たちがベイルートでまだ破壊されていない場所に逃げてきた。
こうした市民たちは公園、学校、海辺に退避している。また、わたしのアパートの外を行ったり来たりしている。ムスリムの服を着た女性たち、ひげを生やした夫たち、兄弟たちが、黙って海を眺めている。子どもたちは椰子の木のまわりで楽しそうに遊んでいる。人びとはイスラエルに対する怒りをわたしに吐露する。
ヒズボラがイスラエルに対して行なっているように、イスラエル軍はレバノンの食物加工工場、トラック、バス、そして橋などを攻撃している。ゴミ収集用トラックがミサイル発射用の機材と間違われることを恐れてごみ収集の業務は中断している。今朝はゴミの収集なしだ。
ベイルートの新聞にはイギリスの新聞に載らないような写真がたくさん載る。頭部のない赤ちゃん、足や腕をなくした女性、かつて老人だった男性たちの体の一部など。イスラエルの空爆はおびただしくひどい。空爆の結果をわたしたちのように直接目撃することができればそう思うだろう。
ヒズボラが手を下した罪のないイスラエル人犠牲者もきっとこのように見えるに違いない。だが、レバノンの殺戮の規模はもっとひどいと思う。
財務大臣が記者会見を開き、イスラエルの空爆でどれほどの被害がレバノンにあったか述べた。「サウジアラビア、クエート、カタールから支援の約束を得た」と誇らしげに話す。アイルランドのラジオのジャーナリストが「シリアとイランからもか?」と聞く。シリアとイランはヒズボラの支援者だ。「ない」と大臣が答えた。
2006年7月20日 水曜日
アメリカからの電話で、わたしがイスラエルを批判したので「反ユダヤ的」だと言われているという。またか。まっとうな人間を「反ユダヤ的」と呼ぶことで、反ユダヤであることがまるで尊敬に値することのように扱われる日も近いはず。その前にイスラエル軍に対して「市民を殺すのはやめろ」と言ったらどうなのかとわたしは電話口で言った。
2006年7月21日 木曜日
イスラエル軍がカイム刑務所を爆撃した。かつての親イスラエル民兵組織、南レバノン軍(SLA)が拘束者を拷問した場所だ。イスラエル軍が2000年に撤退した後、レバノンはここを博物館にした。イスラエルの爆撃でSLAの残酷性が消し去られることになった。これも「テロリスト」のターゲットだ。
午後11時に電気が復活した。テレビでイスラエルの総領事アリエ・メケルがBBCに対し「イスラエルはヒズボラを爆撃することでレバノン人にとって良いことをしている」と述べていた。「レバノン人の多くが我々のしていることをありがたく思っている」と。レバノン人は命を奪われたりインフラを破壊されたりしたことで感謝しなくてはならないのだ。空爆や子どもが亡くなったことについてもだ。
2006年7月22日 金曜日
大家のムスタファと庭でコーヒーを飲む。イチジクの木に古い木製のはしごをかけ、果物の一皿をわたしにくれた。「毎日、イチジクが食べられる。午後、この木の下に座る。海からの風がエアコンの役目をするんだ」とムスタファ。わたしは鉢植えの植物が並ぶムスタファの小さな天国を見ながらブルーのコーヒーカップにはいったアラビア風のコーヒーをすする。
わたしたちはベイルートの港に戦艦が入ってくるのを見る。「外国人が全員いなくなったら何が起きるのか?」とムスタファが聞く。
みんながそれを知りたがっている。今週、答えがわかるだろう。
#ヒズボラは「テロリスト」組織であると主張するのはアメリカとその代理人だけだ。大部分の国がそうは言わない。イスラエルの南レバノンへの違法な侵攻と占領の後、ヒズボラはレバノンの主権(独立)を守るために1980年代に構成された。アメリカ・イスラエルの対ヒズボラ戦争はレバノンに対する植民地戦争である。
冒頭の画像:日本を入れた、ワイン色に塗られた国だけがヒズボラをテロリスト組織と呼んでいる