見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2010/07/03

代償を払っているのは誰



◇イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は7月1日、2006年にイスラム原理主義組織ハマスに拉致されたイスラエル軍のギラド・シャリット伍長の解放と引き換えに、収監中のパレスチナ人1000人を釈放する用意があると述べた。

ネタニヤフ首相はテレビ演説で、「イスラエルは国家としてシャリット伍長の解放に高い代償を支払う用意があるが、いかなる代償でも支払うというわけではない」と発言した。

ハマス側は戦闘員を含む数百人のパレスチナ人の釈放を要求しているが、イスラエルはイスラエル人殺害に関与した人物の釈放には消極的。ネタニヤフ首相は、過去25年間に捕虜交換で釈放したパレスチナ人が再びイスラエルへの攻撃を実行する例が多かったと指摘し、「収監者の釈放決定は難しく複雑だ」などと語った。

イスラエル国内ではシャリット伍長の解放を求める世論が高まっており、シャリット伍長の家族と数千人の支援者は政府に圧力をかけようと、6月27日にイスラエル北部を出発しエルサレムまで約200キロの道のりを12日間かけて行進している。

(AFP 2010年7月2日)

◇イスラエルのギラド・シャリット・デモ行進が数千人を引き寄せる

捕まったギラド・シャリット兵士の解放を訴えるイスラエル中のデモ行進に2万人が参加してきていると主催者は話す。

デモ参加者らは国の至る所12日間のデモ行進の半ばにあり、デモはベンヤミン・ネタニヤフ首相の自宅外で終わる。

ネタニヤフ氏はパレスチナ囚人1000人を解放すると申し出ているが、兵士を捕らえるハマスには「どのような代償」にも報いない。

囚人交換にイスラエル社会から圧力が上がるのを軽減しようとしてネタニヤフ氏はスピーチを用意した。

だが、金曜のデモ行進に2万人が合流したと主催者が言っている限りでは、その措置が仇となるかもしれない。

「首相のスピーチが人々に影響を及ぼして一役買う決心をさせた」とフリー・シャリット・キャンペーン統率者のShimshon LiebmanはAFP通信社に語った。

シャリットの両親と支援者らはエルサレムまで行進する。彼らはネタニヤフ氏の官邸外で野営をするつもりである。彼らは現在23歳の息子なしでは引き揚げないと断言してきている。

兵士の父、ノーム・シャリットはネタニヤフ氏のスピーチを非難してきている。

「ギラドがハマスの秘密の地下室で生気を失ってきている4年の結果として、ベンヤミン・ネタニヤフ首相が何とかやってのけてきているのが彼の前任者の記者会見をリサイクルするだけなのを、私たちは残念に思う」と彼はイスラエル北部Rupinで言った。

ドイツの調停者を介してイスラエルとハマスとの刑務所交換取引に関する会談は昨年末に失敗した。

イスラエルが「人の死に対し責任がある」という数名をハマスが自由にしたがる限りでは、双方の側が囚人リストに承知できなかった。

彼らはまた捕虜が解放される場所についても不和だ。イスラエルは解放される捕虜をガザ地区に送りたい、ほとんどパレスチナ人は移動できないか、またはその領域より強制退去してきているために。ハマスはヨルダン川西岸地区出身者は西岸に帰還させたい。

ネタニヤフ氏のスピーチに応じて、ハマスは、シャリット曹長をめぐってイスラエルからどのような耳新しい申し出も受けてきていないと言った。

△写真はデモ5日目、金曜日の抗議デモのひとつ
(BBC 2 June 2010)

◇首相に難題 拉致された兵と囚人を「交換」 譲歩求め1万人デモ

パレスチナ自治区ガザ地区でイスラム原理主義組織ハマスに4年間監禁されているイスラエル兵の解放を求める世論が、同国のネタニヤフ首相を窮地に追い込んでいる。最大1万人に達するデモ隊は北部を縦断中で、8日にはエルサレムに到着する。ハマスは、イスラエルに収監されているパレスチナ人囚人1000人との「交換」を要求しているが、首相は、人選を含めてどこまで譲歩するかの判断を迫られそうだ。

兵士は06年6月にハマスの武装勢力などに拉致されたギラド・シャリト曹長(23)。ドイツがかねて解放交渉を仲立ちしている。

拉致から丸4年がたったのを機に、交渉停滞に焦る両親らが積極的にメディアに出演し、世論を盛り上げた。また、政府が曹長の解放をガザ封鎖の主要な目的の一つに挙げていたのに、先月中旬以降、封鎖を緩和したことも国民の怒りを買っている。

行進は先月27日、家族が先導して同国北部を出発。最大紙イディオト・アハロノトが賛同者名簿を連日掲載するなどキャンペーンを張り、閣僚3人も加わると宣言した。同紙の世論調査によると、国民の72%が「交換」に賛成している。

ネタニヤフ首相は1日、テレビ演説で「家族と痛みを分かち合いたい」と話し、「1000人」との交換に応じる意思を表明した。しかし、ハマス側の要求には、イスラエル側が「第一級のテロリスト」と呼ぶ一部パレスチナ組織幹部らの釈放が含まれ、これは拒絶する構え。特にパレスチナ解放機構(PLO) の「次期指導者」と期待され、パレスチナ人の間で人気が高いマルワン・バルグーティ氏の釈放については応じないとみられる。演説でも「殺人者を釈放すれば、(新たな)犠牲者を生む可能性がある」と語り、世論を見極めようとしている。

国民皆兵のイスラエルでは、捕虜となった自国兵士を取り戻すことは重大な内政問題だ。人数に大差がある条件でも過去にしばしば交換が行われた。

・イスラエル兵拉致事件:
イスラエル軍のギラド・シャリト曹長(当時は伍長)が06年6月25日、同国南部のガザ境界近くでハマスの軍事組織などとの戦闘の末に拉致された。軍は同月28日にガザに侵攻、11月の停戦までに民間人を含むパレスチナ人400人以上とイスラエル兵5人が戦闘で死亡したが、曹長は救出できなかった。生存の可能性は高いとみられるが、正確な居場所は把握されていない。

(毎日新聞 2010年7月3日)

2010/07/02

マラドーナに勝ってほしい



南米のために、キューバのために、マラドーナのアルゼンチンに勝ってほしい!

昨年のカンヌ上映にこぎつけたエミール・クストリッツァ監督のドキュメンタリー映画「マラドーナ」をやっと見た。撮影開始は2005年のマラドーナの娘の誕生日だが、途中、マラドーナが死にそうになったり、いろんなことがあって、結局、2007年までかかる。
まさに二人の闘士(ひとりは映画を商売からアートに取り戻そうと闘う、ひとりはフットボールで血に染まった西側諸国のずるさと闘う)は会うべくして出会った。

まもなくドイツ対アルゼンチン準々決勝のキックオフ
間に合ったら、この映画を見てからの観戦をすすめる。

http://www.maradonafilm.com/
2008年の映画(2005年〜2007年に撮影)
マラドーナと監督エミール・クストリッツァ、同志の出会い

英国チャールズ皇太子の会いたいとのオファーを「彼は血に汚れている」と言って断り、アメリカとキューバからの功労賞のオファーにはキューバからのみ受け取る男、マラドーナ。もちろんカストロとも会って満面の笑み。そして世界の政治家でもカストロだけは違うと断言した。

エミール・クストリッツァは、マラドーナはフットボール選手というより革命家、まるでセックスピストルズのようだとも言う。実際、イングランド対アルゼンチン戦は「フォークランド紛争のあだ討ち」だったとマラドーナ自身が告白する。あの紛争で死んだ若者たちのために戦った、試合に勝利したとき、仕返ししてやった!と思ったと述べている。

2005年11月4日、当時のブッシュ大統領がアルゼンチンに来るというので、「やつをアルゼンチンには入れない!」大反米集会が起こった。監督もマラドーナ、ボリビアのモラレス大統領らと同じ列車で向かった。この列車のなかの熱気がすごい、監督も言っていた、目の前で起こっていることに身が震えたと。大集会を仕切るのはベネズエラのチャベス大統領、彼もまた「マラドーナが来てくれた!」と興奮して紹介する。

ラスト、ストリートでマヌ・チャオが「マラドーナになりたい、マラドーナのようにプレイしたい」という曲を歌うとき、ストリートにいたマラドーナが実に感慨深くマヌ・チャオに近づき、向き合う。(わたしはマヌ・チャオの大ファン)すごいシーン!これだけでも見応えあり!ストリートでマラドーナを迎え囲むひとりにニール・ヤングの姿があった。

1986年Wカップ、イングランド戦で5人抜きの世紀のゴールを決める。
イタリアリーグ・セリエAのナポリに移籍、初優勝に導く。
だが、90年のWカップ・イタリア大会でイタリアと対戦し勝利した後、イタリアとの関係が悪化、その後コカイン使用が浮上して15カ月の出場停止処分を受ける。これについては(ナポリのオーナーとFIFA会長がなにやら企む)はめられたと言っている。
コカイン中毒、極度の肥満、アルコール依存症、危篤状態、もろもろを経て、いま、マラドーナはアルゼンチンの代表監督として南アで元気な姿を見せている。
マラドーナの「神の手」教というのがあり、おもしろい。
「コカイン中毒さえなかったら、まだプレイできていたと確信できる... ボールは汚れていない。」

◇マヌ・チャオが“クレイジー”なCDをプロデュース
アルゼンチンの「ラ・コリファタ」
vendredi 1er février 2008, par nahoko

「このディスクは、僕のキャリアでもとりわけ重要なものの一つになると思うんだ」マヌは語り始めた、絶えることのないほほえみ、ルポライターのタンタンのような風貌で。ラテンアメリカに恋をして、世界を渡り歩くミュージシャン。彼は2007年12月、アルゼンチンにいた、アルバムを、前代未聞のアーティストたちと録音するために。そう、ブ エノスアイレス、ラ・ボルダの精神病院の患者たち、自らのラジオ局「ラ・コリファタ」を運営し、そこでクレイジーな土地のスラングで話している彼らだ。 1991年、アルフレッド・オリベラという若い精神科医によって設立されたこのラ・コリファタは、アルゼンチンでは大いに成功し、海外にもファンがいる。 毎週土曜日、番組は、施設の壊れかけの壁の向こうに閉じこめられた500人の患者たちの隔離と苦痛を打ち破る。病院の権威者たちは無関心を装うが、この電波によるセラピーはなかなかの結果を出している。ラジオにかかわる何人かの慢性患者たち、いうなればコリファトスたちのうちには、施設を離れ家での療法に切り替えることが可能になった者がいるのだ。

「彼らは僕を激変させたんだ、初めて録音で聴くことができたその日からね。一目惚れだね、僕らは友人になったんだ。」マヌ・チャオはそう語る。 「言葉の壁はあるけど、世界中の人に聴いてもらいたい。彼らは僕にいろいろなことを教えてくれたんだ。彼らには幻覚を起こさせるような正気があるんだ、それによって人生の問題、愛、そして政治なんかを三言で総括する。それっていうのはね、純粋な状態でのポエジーなんだ、プレヴェールのね。それから、彼らの間にはかなりの寛容性があって、誰もが他の誰かのキチガイぷりを受け入れてるんだ!ぼくはといえば、キチガイの境目っていうのがわからない。僕にとっては、境目はそのキチガイが苦痛となったときだ。苦痛がないなら、何か問題あるかい?」

・スーパーわんぱく

お祭り騒ぎのここ数日間だ、ブエノス・アイレスから数キロ離れた田舎にある家、録音スタジオが隣接するここで、アルゼンチンのロックグループ、ロス・ピオホス(しらみたち)に参加している。バミューダパンツにひらたいカスケット姿の46歳、スペール・チャンゴ(超わんぱく)と、アルゼンチンの日刊紙がマヌ・チャオに名づけたまさにそのままにして彼は子供のように夢中になっていた。ここにいるのは自分の部族、ピオホスのメンバーたち、ラディオ・ ルーツのメンバーたち、バルセロナのストリートで出会ったアルゼンチンのミュージシャンたち、そしてコリファトスが12人ほど。

唄う者もいれば、詩を引用する者、その場で講演を始めだす者もいる。「アサド」(南米の肉のロースト)、伝統的な肉のグリルの後では、チームに分かれてベイビーフット(台についた棒で操作するサッカーゲーム)で仕事前のプレイだ。裸足で花柄ショーツのコリファトの1人、ユゴーは、怖じ気づきだした。彼はマイクという習慣がないのだ。

彼の脇に座ってマヌ・チャオは彼を元気づける。「オレは意地悪で、残酷で、エゴイストで、偏見に満ちていて、すべてを握っている。銀行も、石油も、水道も、戦争も起こす、人類なんて滅ぼして、たったひとりこの惑星の主人となりたいのだ、オレが神なのだ!」ユゴーがぜえぜえと息を切らせる。彼がこの、 ジョージ・ブッシュに捧げられた歌の作詞者だ。少し離れたところでは、エデュアルド、ビートと呼ばれ、にかっと笑うと歯が欠けている、彼が自分の番を待っている。「マヌは兄弟のようだ。俺らは離れて暮らしているのだが、けれども彼のお陰で自分たちを大事な者として感じることができる。だからさ死なせてなるもんかと決めたのさ。」

コリファタのメンバーとともに、マヌ・チャオはマリのグループ、アマドゥ・エ・マリアムとしたのと同じように仕事をした。そのアルバムをプロデュースし、彼らの歌やラジオのクロニークを録音しまた音楽を追加した。「コリファトスは、自分自身による収入源が必要だったんだ。僕は助手役はいやなんだけど、彼らにお金が入ってくるディスクならさ。」

ブエノスアイレスでは、マヌ・チャオはコンサートを行わなかった。ファンたちはクチコミでボルダの庭で夜更けまで彼を聴くことが出来る場所を知ることができた。あるいはプレス・コンフェレンスの間、自分の最新作「ラ・ラディオリーナ」について語っていた。その歌の一つ、「ラ・ビダ・トンボラ」は、アルゼンチン人を魅了したディエゴ・マラドーナだ。マヌ・チャオは2年前、エミール・クリストリッツァの助けで彼に会っている。

このセルビア出身の映像作家は、彼をナポリに招待した。そこで彼は、アルゼンチン人のアンファン・テリブル(恐るべき子供)たるフットボーラーのためのフィルムの一部分を回していた。彼こそマヌ・チャオが歌を捧げたその人だ。そこから、クリストリッツァが「レイニン・イン・パラダイス」のクリップを制作し、そこでラ・コリファタのメンバーに出会ったのだ。

現代というものが、常にこのミュージシャンの話すことのなかに存在している。「ラテンアメリカには希望がない、ヨーロッパにないのと同じように。」彼はそう評価する。彼は嘆く、「ヨーロッパ人たちは、ますます保守的になっていくんじゃないか。」ベネズエラで起こっていることには強く印象を受けたという、「若い子たちと話ししてると、何かが動いているニオイがしてくるよ。」

彼はヨーロッパのメディアを厳しく批判する。「ウゴ・チャベスをメディアにさらし、ベネズエラ大統領のポピュリズムを語る。だが、この国でほんとうに起こっていることには完全沈黙。これは情報じゃない、操作だ。」

マヌ・チャオはアルゼンチンには10月と11月に戻ってくることを考えている。ラ・コリファタのアルバムのプロモーションのためだ。それを待つ間、フランスのステージに戻るともアナウンスしている。彼が必要だと考えて戻ってくる、長い不在のあとで。「特に今、この政府だからこそ」と、彼は指摘する。 「事態はひどく緊迫している、若者にはもう未来が見えていない。これはラテンアメリカと同じたぐいの暴力ではないけれど、底知れぬ怒りの爆発なんだ。」

by クリスティーヌ・ルグラン
http://manuchao.jp/dossier/spip.php?article33

2010/06/29

犯罪場所はG20サミット内部



◇ナオミ・クライン: 本当の犯罪場所はG20サミット内部

トロントの街頭で数千人が抗議するとき、G20サミット内部で世界の指導者らは、2013年までに政府の赤字を半減するという異論の多い目標に承諾を与えます。私たちはジャーナリストのナオミ・クラインと話をします。「まあ、サミットで実際に持ち上がったものは、全世界のエリートが彼らのべろんべろんの酒池肉林(享楽的な大騒ぎ)のための代金を世の中の貧しい人々、最も脆弱な人々に押しつけたってことです」とクラインは言います。


◇G20の抗議を取材する間にカナダ警察によって激しく叩かれ逮捕されるのをジャーナリストが説明する

トロントでのG20抗議で逮捕された数百人の中に、いくらかのジャーナリストがいました。Jesse Rosenfeldは、ロンドンのガーディアン紙の仕事にすすんで参加するフリーランスの記者です。彼はまたオルタナティヴ・メディア・センターに雇われるジャーナリストでもあります。ノヴォテルホテルの前の抗議を報道する26日夕刻、彼はカナダ警察によって逮捕され、拘留されました。

(以上、デモクラシーナウ!28 June 2010)

◇トロントG20抗議で600人以上が逮捕される

G20世界経済サミットに反対してデモに関係する600人以上をトロントの警察は逮捕しました。抗議する人に場所を与える建物、トロント大学を警察官が急襲した日曜に多数の逮捕が持ち上がりました。国際アムネスティは警察当局の手入れに独自調査を要求してきています。その声明で人権団体は、「穏やかな抗議に関連する重要な権利が、週末を通じて、市中でかなり損害を被ってきている」と言いました。抗議は大部分が穏やかでした、けれども、いくつかの警察車両は威勢よくけしかけて、商店の窓が粉々にされました。

◇G20の指導者らは2013年までに政府の赤字を半分に減らすことで一致

G20サミット内部で世界の指導者らは、2013年までに政府の赤字を半分に減らす異論の多い目標に承諾を与えました。そんな措置はかなり大きい増税と、社会保障制度や医療保障計画の恩恵を含めて政府の計画にどっしりと削除を迎え入れる可能性もあるとエコノミストらは言います。ノーベル賞受賞者の経済学者、ジョゼフ・スティグリッツは、「一種の経済的業績悪化を抜け出すやり方として国家が国の支出を縮小することでほとんどうまく行ったケースはない」と言って、G20の一致を非難しました。そうした中でG20の世界の指導者らは、巨大銀行に初めての包括的規律を置くことも、初めての世界的銀行税を全面的に負わせることも、折れ合うのに失敗しました。

◇カルザイが主要な反乱者の首領と会見する

アフガンのハミド・カルザイ大統領がアフガニスタンの反米暴動の主要統率者、Sirajuddin Haqqaniに会っていると、アルジャジーラが報じています。Haqqaniはその会合にパキスタン軍指導者とパキスタン諜報機関統率者に付き添われてきていると報道されます。Haqqaniネットワークはカブールと至る所の最も世慣れた攻撃を引き受けると思われます。会合は、カルザイがアメリカ合衆国で信頼を失ってきていてパキスタンにますます助力を求めているとの報道の後、何週間かで生じます。27日、CIA長官レオン・パネッタは、Haqqaniネットワーク指導部が喜んで交渉した「証拠は一つもない」と言いました。
レオン・パネッタ:「彼らが調停に心から関心がある証拠は私たちには一つも見えてきていない。調停は彼らが武装放棄するつもりの場合、アルカイダをこき下ろすつもりである場合、全くあの社会の一部になろうと努めるつもりである場合だ。」
ABCの番組「This Week」でのCIAパネッタ長官の談話です。

◇CIAパネッタ長官がパキスタンでの無人機攻撃を擁護

パネッタはまた、パキスタンの疑わしい活動家を暗殺するため無人機の使用をめぐって国連からの非難を一蹴しました。
レオン・パネッタ:「私たちはこの国を防衛する責任がある。私たちがしているのはそれだ。それで、どうもそれを匂わす誰にでも、ご存じでしょうが、私たちはどうしても国際法を破るのは絶対的な誤りという点で、ほかの戦法を雇い入れている。私たちがしているのはこの国を防衛することだ。私たちの事業は全部それに従事する。」

◇イスラエルの軍事飛行に対してトルコが上空領域を閉鎖

数百とトルコ人を運ぶガザ行きの援助船団への先月のイスラエルの生命を奪う急襲の後に、トルコは、いくつかのイスラエルの軍事飛行に対して上空領域を使用停止にしてきています。トルコ人8人とトルコ系アメリカ人一人が急襲で殺されました。

◇ブラックウォーターはスーダンでの契約で罪状を受けない

米国の経済制裁を受けている国なのに南スーダンで金になる警備商売を獲得しようとすることで、オバマ政府は、ブラックウォーターに対して刑事上の容疑を持ち出さないことに決めてきていると、McClatchy Newspapersは報じます。

◇コンゴの人権活動家の葬儀が執り行われる

コンゴ民主共和国で土曜日、コンゴの最高の人権活動家のひとり、Floribert Chebeyaの葬儀に、数百人がキンシャサの端から端までどんどん進みました。Chebeyaは2週間前に公安のボスと面会するため召喚された後、彼のクルマのなかで死んでいるのを発見されました。Chebeyaの支持者たちは彼の死の独立調査を要求してきています。
Therese Mwuzinga:「私たちは立ち止まるつもりはありません。私たちは正義を手に入れるためここにいます。私たちはただ命を無駄にするためにここにいるのではなくて、当然の報いを手に入れるためここにいます。Chebeyaの人生の道は正義の道のりです。」

◇原油分散剤の製造業者がロビー活動効果に多くの金を使う

BP原油流出に関するニュースでは、問題の多い化学物質分散剤Corexitの製造業者がワシントンのロビー活動スタッフに金をつぎ込んでいます。製造業者Nalcoが近ごろ会社のワシントンでのロビー活動の取り組みを推進するためにRamola Musanteを雇ったとウェブサイトGreenwireが報じます。Musanteは先に、EPA(環境保護庁)と資源エネルギー省の両方を動かしました。Nalcoはまた、政府関連Ogilvy を雇ってきています。

◇沖合掘削に反対する600の集会が開催される

26日、沖合原油掘削に抗議するため600以上の集会が開催されました。抗議はテーマ「Hands across the Sand」を中心にして組織化されました。BP原油流出に抗議するため、キャロル・ニューカムはフロリダ州ナバーラのビーチに家族を連れて来ます。
キャロル・ニューカム: 「終わりがないのが見えるのは、私たちをうんざりさせますね?これがいつか止まる前に、もしかしたら幾年もかかるかもしれないし、彼らがじかに現場で収集していることについて有りのままを教えているかどうか、私たちはわかっていません。」

(以上、デモクラシーナウ!ヘッドライン28 June 2010)

△写真は1962年に36歳で死んだマリリン・モンロー
1954年病院を訪れた間に撮られたモンローの胸のレントゲン写真3枚組がラスベガスのオークション、プラネットハリウッドで、4万5000ドルで売られた(BBC News 28 June 2010)
いくらモンローフェチといってもねえ...
わたしも旅の途中でやむを得ず撮ったX線写真をずっと一年ちかく旅に同行させていたことがある、あるとき気づいて見てみると、パラパラと、ばらばらに崩壊していた。言いたいのは、保存は大変だということ...

2010/06/27

オバマ対モラレス




今年4月23日の「デモクラシーナウ!」の番組にボリビアのエボ・モラレス大統領が出演した。彼はオバマ大統領について、「黒人大統領がインディオ大統領に対してこれほど復讐の念を抱けるとは信じられない」と語った。

以下は、6月号のル・モンド・ディプロマティーク日本語電子版、「ボリビア政情不安についての但し書き」という記事。常にアメリカの政治的・経済的利権がらみ、思惑通りに流血のワナが仕掛けられてきている南米の実態を知る手がかりになる。

△写真はデモクラシーナウ!に出演したときのエボ・モラレス大統領

◇ボリビア政情不安についての但し書き
 by エルナンド・カルボ・オスピーナ特派員(Hernando Calvo Ospina)
   訳:土田修

2009年4月、米国のオバマ大統領は中南米の大統領を前に、「平和を増進するには歴史の教訓から学ぶべきだ」と表明した。だが、先のホンジュラスのクーデタのときに米国政府が示した態度からすると、中南米への介入の時代はまだ閉じられていない。しかも、それは時として予想外の形で現れる。[フランス語版編集部]

南方の近隣諸国の自立解放志向を抑え付けるために、米国は経済という「アメ」と軍事介入という「太いムチ」を使ってきた(このムチはホンジュラスのクーデタの際に思いがけず新調された)。だが、それだけにはとどまらない。これらの諸国では、進歩派政府の進める再分配政策によって「アイデンティティ」を脅かされているとする地方エリート層が、独立を要求する動きが見られる。そうした要求を支持することが、米国の手法の一つをなす。この戦略は1980年代初頭にニカラグアで、最近ではボリビアで使われている。

ボリビアでは、2005年12月にエボ・モラレスが大統領に選ばれた。社会主義運動(MAS)を率いるモラレスは、都市部のプチ・ブル層の支持を受け、アイデンティティを前面に出した選挙運動で先住民組織をも引き付けた。しかし、MASが推進した多民族国家という枠組みは、やがて思いがけない要求を呼び起こした。地方エリート層が「社会的『分離主義』」を唱えるようになったのだ。「先住民、市町村、地方といった様々な自治レベルを認め、それら相互の連携については定義していない」新憲法草案の下で、分離主義運動の道が開かれたというのが彼らの言い分だ。抑圧されたマイノリティの擁護を唱え、ボリビア政府に揺さぶりをかけるチャンスというわけで、米国が彼らの支援に乗り出したことは言うまでもない。

米国の戦略はすぐさまサンタ・クルス県に狙いを定めた。ボリビア経済は同県の天然資源(特に石油・ガス資源、金、鉄)に依存している。同様に天然ガスと肥沃な土地に恵まれ、サンタ・クルスとともにメディア・ルーナ(半月)と呼ばれる地域を成しているタリハ、パンド、ベニ各県が、間もなくサンタ・クルスの主張に同調した。同県の県都サンタ・クルスは、反大統領派の中心地と化した。

米国の駐ボリビア大使フィリップ・ゴールドバーグは、信任状を捧呈してから2カ月後の2006年10月13日に、メディア・ルーナ地域の反政府派と協議を始めた。この外交官は、バルカン戦争中の1994年から96年まで国務省でボスニア担当室長、2004年から2006年にはコソヴォの在プリシュチナ「米代表団長」を務めている。モラレスによれば、ゴールドバーグはプリシュチナで「分離主義を支援することで、多数の死者を出す結果を招いた」という(4)。彼のこうした経歴は、ボリビアに対する米国の姿勢が、「分離主義」を掲げる反政府政治団体への肩入れだけでは済まされないことを告げていた。

ボリビアでは「彼の仕事を知らぬ者はなかった」と、弁護士でラ・エポカ誌の発行人ウーゴ・モルディスは言う。「彼は隠しもしなかった。準備された計画の目標は、軍や警察も巻き込んで流血の暴力行為を引き起こし、統治不能な状態を生み出すことだった。そして大統領を辞任させ、選挙を実施させ、大使館お墨付きの候補者を勝たせることだった」

2008年9月、民兵グループが30人近くの無防備な農民を殺害し、タリハとサンタ・クルスの油田、それにベニ空港を占拠した。退役将校のセルヒオ・エスピナルはこう断言している。「彼らの行動様式は、外国の専門家の助言やコロンビア民兵の関与を窺わせる」。さらにひどいのは「油田に駐屯していた国軍部隊が武装解除に無抵抗で応じたことだ。その中に、陰謀に加担する者がいたということだ」

メディア・ルーナ地域のエリート層寄りの民間メディアも、手をこまねいてはいなかった。コカ栽培者から代議士となったサビーノ・メンドーサは当時のことをこう語る。「こうした事件をプレスは逐一報道した。それは、事件を糾弾するためではなく、不安と恐怖のムードを助長するためだ。プレスが流したメッセージは、『エボ』が辞任しないのなら戦争が起き、米軍の介入を招くかもしれないというものだ。私のような大統領支持者を動揺させる目的で、流言、嘘、誇張がまき散らされた」

「民主主義擁護」から暗殺計画へ

既に2007年7月、米国国際開発庁(USAID)は反政府派グループに資金を提供したかどで非難を浴びた。「民主的政府の回復」計画への資金提供が必要だと説いた文書をボリビア政府が押さえたのだ。周知の婉曲表現だと、社会学者のクリスチナ・グスマンは解説する。いわゆる「市民社会」の諸機構や、諸政党など、数々の非政府組織(NGO)に資金提供していた。それらの団体が、人権や報道の自由、事業の自由という旗印の下で、政府に対する敵意を助長するようにすることが目的だ」

この間ずっと、モラレス大統領の執務室には奇妙きわまりない隣人がいた。大統領府のただ中に、米国中央情報局(CIA)の出先機関があったのだ(ボリビア政府が自国の主権よりも米国との関係を懸念した時代の残存物だ)。「特殊警察活動センター(COPES)と呼ばれる部署で、警察の将官の管理下にあり、米国大使館に直属していた」と国営ボリビア通信(ABI)の総局長、ホルヘ・クーバは明言する。

右翼国際主義の風が国内の地方分離主義の熾き火を掻き立てていると見たモラレス大統領は、CIAの出先機関を解体した。大統領は2008年11月3日、「国家の威信」を理由として、最早ボリビアではCIAは招かれざる客だと宣言し、その直前には米国麻薬取締局(DEA)を追放している。DEAの職務が、分離独立を要求するメディア・ルーナ地域の反政府派の支援にまで拡大されていると察したからであり、そのようなことがDEAの公式任務のうちに入るとは言いがたい。加えて2008年9月11日、政府と反政府派の間が極端に張り詰めていた時期、大統領は米国大使をペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)であると宣言している。

大使が追放され、USAIDに制約が課され、CIAとDEAも退去させられると、奇妙なことに分離運動の高揚は鎮静化の兆しを示した。大統領が選挙で圧勝を続けたことは言うまでもない。反政府派のうち最も急進的な勢力は、あらゆる政治的要求をあっさりと放棄した。そして、いわゆる「民主主義擁護」から暗殺計画へと平然と移行した。彼らにとっての選択はただ一つ、あの「インディオ」大統領、およびアルバロ・ガルシア・リネラ副大統領にけりを付けることだ。

作戦の先頭に立つのは、実業家のブランコ・マリンコヴィッチだ。ボリビアに亡命したウスタシャ(クロアチアのファシスト勢力)の息子であるマリンコヴィッチは、サンタ・クルス市民委員会(5)の委員長を務め、メディア・ルーナ地域の「独立」を求めるカンバ国民解放運動(MNCL)を率いている。MNCLのインターネット・サイトにはこう書かれている。「血が川となって流れる前に、それぞれの民族が自分たちの資源を管理し、自分たち固有の問題を解決することができるよう、穏便に袂を分かつ方がよいのではないか」。先のクーバによれば、マリンコヴィッチの企図は柔和な言葉と裏腹に、「バルカン戦争の際の人種差別、宗教、分離主義のシナリオをボリビアに移植すること」にある。

マリンコヴィッチが呼び寄せたエドゥアルド・ロージャは、まさしくバルカン半島で活動していた。紛争時にはクロアチア民族主義者の部隊に加わっていたロージャは、マイケル・ドワイヤー(アイルランド人)、アールパード・マジャロシ(ハンガリー系ルーマニア人)、エレード・トーアーショー(ハンガリー人)、マリオ・タディッチ(クロアチア人)を連れて来た。そのほとんどはかつてバルカン戦争に加担していた。クーバは語る。「計画は完璧に進められていたが、グループ内部に1人の警官が潜り込んだ(そこでは『インディオ小僧』と呼ばれていたらしい)。2009年4月16日、彼らが滞在していたホテルに警察が突入し、ロージャを含めて投降を拒否した3人が撃ち殺された。ボリビア分割を狙った最新の計画もまた、この夜に息の根を止められた」。マリンコヴィッチは逃亡を選び、米国に高飛びした。

張り巡らされた財団とNGOのネットワークが、「市民社会」の堂々たるメンバーというイメージを利用して、政権に揺さぶりをかけようとしてきたと言えるだろう。エクアドル人歴史学者のアドリアーナ・ビジェガスはこう確信している。「それらが世界中の様々な状況の中で、NATO軍より効果を発揮できることは、十二分に立証されている」

ボリビアで試された方式は、エクアドルやベネズエラでも採用されているようだ。ビジェガスは次のように分析している。「ボリビアのメディア・ルーナ地域だけではない。ベネズエラではスリア州の独立を求める人たち、エクアドルではグアヤス州について同様の構想を描く人たちが鼓舞されている。スリア州には世界最大級の石油産業の一つがあり、グアヤス州は主要港を擁する経済の中心地だ。その上、サンタ・クルスが他の3県(ベニ、パンド、タリハ)を味方に付けたのと同様に、スリア州はタチラ州とメリダ州、グアヤス州はマナビ州の支持を取り付けるに至った」

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2010年6月号)
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