見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2010/03/13

パティ・スミスの Just Kids



◇裸足でダンス:パティ・スミスの「Just Kids」
ロックのあこがれの的が若いときを回顧する

「ジョン・マッケンドリー(メトロポリタン美術館写真部門キューレータ)がニューヨークのハイソサエティの主役、マキシーン・デ・ラ・ファレーズ(2009年4月死去、50年代ファッション信奉者、ファッションモデル、アングラ映画女優、料理本を出版)と結婚した。ジョンとマキシーンは、このうえもなく魅惑的だった世界に入る機会をロバート(メイプルソープ)に供給した。」デ・ラ・ファレーズは「秀でたコック」で、「差し出されるどの洗練されたコース料理にも同じ程度によくスパイスが効いた彼女の客による当意即妙のやりとりがあった。彼女のテーブルに座った典型的な例では、ビアンカ・ジャガー、マーサ&ベリー・ベレンソン、トニー・パーキンス、ジョージ・プリンプトン... 」

ここで、そして他にも幾つかの箇所で、この本がほんとうにパティ・スミスによる回想録なのかどうか確かめようと、あなたはいまにも「Just Kids」の表紙を裏返そうとしていたかもしれない。さらにパティ・スミスの歌や彼女のタフな初期の詩から私たちが慣れてるものではない、スーザン・ソンタグのジャンルの新しい試みか、ことによるとロマンス小説のように感じさせる。けれども彼女が外国のスタイルを得ようと努めるのはそれほど不思議なことではない。彼女はランボーの霊媒になろうとして乗り出し、それを今ではたいしたものの彼女独自の詩的なロックンロールに変えた。

彼女はここでは同様の上出来の変換に達しない。「Just Kids」は時々、詩人によって書かれた長い散文のいつもの欠点を有するただの記念のアーチではあるが、クラリネットの新たな試みでのように、みごとなできでなくても、その献身的な熱意の力によってパティ・スミスはあなたを引きつける。

ここで彼女の強い愛着の主たる対象は、1989年エイズで死んだ、彼女の愛人であり友人、芸術のパートナー、ロバート・メイプルソープだ。「Just Kids」は彼らの関係についてであり、また関係外の少なくとも最初の評判までの彼女の人生についてでもある、したがってこれは、長いことこれを待ってきたファンを喜ばすに決まっている部分的な自叙伝になる。

パティ・スミスは1946年シカゴで生まれ、ペンシルバニアのジャーマンタウンに、その後、サウスジャージーに移った。本は幼年期の記憶、ピーターパン冒険心の少年団を率いる熱中とわるさで始まる。(一方、若きメイプルソープは、母親のためにビーズに糸を通し、宝石に絵を描くことで忍耐ともの作りを学んでいる。)パティ・スミスは、「ヤングレディになるのが肝心」だからと、「私のダチの前で」シャツを着るよう母親に言われるとき腹を立てる小さな反逆者になる。パティ・スミスは十代で妊娠する、赤ん坊を放棄して、芸術の夢を抱く若者は「誰も私に期待しない、すべてが私のために用意されている」ビッグシティをめざす。

メイプルソープもまたそこにいてプラットでアートを勉強する。空腹でストリートを歩くパティ・スミスは彼とばったり出会い、二人はロマンチックな物語風の夜を共有する(「彼と一緒で私が感じた快適さと開放感に驚いた。LSDでトリップしていたと彼は後で教えた」)。すぐに二人は最初はロマンチックに人生を共有する、だが主として共通のアートと名声の夢を分かち合う。創作するためほとんど逆上状態の二人はどちらも自己の考え、仕事に夢中だ、二人の薄く透き通るもやのような寝室「ロマンチックチャペル」を彼が破壊して反射するマイラー(ポリエステルフィルム)に代えたときパティ・スミスの初期のメイプルソープに対する期待はずれのひとつがやってくる。(後に、彼が自分はゲイと公表してパティ・スミスの驚きに。)だが、銭が不足すると(貧乏、不振、淋病)二人は互いの面倒をみる。ものごとが満足のいくとき、二人はダンスする。

途中で二人は身を立てる道を開く。「Just Kids」は、ヒッピーとパンク時代の間のくたびれたダウンタウンシーンについて、そして文化的な情熱を燃やし続けた生存するアーティストと企業家について、とっておきのバカ丁寧な説明をする。私たちはまた、この二人のスターの日の出の勢いが才能によって駆られたのではなく、マックスの極上のテーブルの釣りの腕かまたはデ・ラ・ファレーズのディナーパーティで描かれるもっと高尚なネットワーキングか、いずれにせよ、社会的よじのぼりが欠かせなかったことを示される。

パティ・スミスが伝えるとき、メイプルソープはいっそう刺激されるよじのぼり屋で、そのせいで彼女は時々彼を非難する。「あなたは近道を期待している」と彼女は彼に言う。「なぜボクは長い手段をとらなきゃならないのか?」と彼は返答する。だが、彼女はずっと従って自分を関係させる。(「サム・シェパードといっしょに一体何をしているの?」とジャッキー・カーティスが彼女にわめく。)極度に自信過剰のパティ・スミスが出世の手づるを景気づける必要があったとは、私たちにはイメージし難いかもしれないが、メイプルソープは明らかに彼女を刺激して順番にコラージュから彼独自の写真へ移行するよう彼をせきたてる。

キュートな少年だと思ったから、アレン・ギンズバーグが自動販売式のカフェテリアでパティ・スミスに食事をおごるというような、幾つかすごい逸話がある。(あとで彼がこの遭遇を彼女がどう報告するか心配するとき、彼女が飢えていたとき彼が食べさせてくれたと言うつもりだと彼女は返答する、これは賢いし、たぶん彼女の巧妙さだ。)しかし、パティ・スミスがあの不毛の時代にそうしたように、「Just Kids」はメイプルソープに戻り続ける。つまるところ、それは自叙伝かもしれないが、どちらのことばの意味においても、彼女は彼なしには自分自身を思い描くことができなかった。

(villagevoice.com 26 Jan 2010 by Roy Edroso)

写真は、写真ブースを共有するパティ・スミスとメイプルソープ(1969 Courtesy Patti Smith)

2010/03/12

カール・ローブ水責めを自慢



◇「水責めは世界を安全に保つ」と誇らしげなカール・ローブ

ブッシュの任期が終わって以降、初の英の放送番組のインタビューでジョージ・W・ブッシュ大統領の主席次官補、カール・ローブがニューズナイトのカースティ・ウォークに語る。ローブ氏のまもなく発売される本「Courage and Consequence(勇気と結果)」はブッシュの側近のひとりによるブッシュ任期のメモリーだ。

(BBC NEWS 11 March 2010)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/8563372.stm

◇ピニェラが大統領に宣誓就任するときチリで地震が起きる

新大統領が就任したばかりの南米チリで11日、強い地震が連続して発生し、中部の都市ランカグアで被害が出ている。当局は同国沿岸部に津波警報を発令、住民に避難命令を出した。

米地質調査所(USGS)によると、現地時間の午前11時39分にマグニチュード(M)6.9の地震があり、その16分後にM6.7、27分後にM6.0の地震があった。2月27日に西部沿岸で起きた大地震の余震とみられる。

震源は首都サンティアゴ南西約152—138キロの地点。この直後に震源から約145キロ離れたバルパライソではセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式が行われたが、テレビ映像によれば就任式に支障はなかった。ピニェラ大統領は、この地震で大きな被害が出たランカグアに軍を派遣すると表明し、自らも就任式後に現地入りした。同日午後にはこの地域を激甚災害地に指定すると発表している。

(CNN 2010年3月12日)

写真は、ピノチェット軍事政権後、チリで20年続いた左派政権に終止符を打った右派連合のピニェラ新大統領(BBC)
ピニェラ新大統領はクレジットカード事業や航空事業で成功を収め、上院議員を務めた。米経済誌フォーブスによると、推定資産は22億ドル。国民からは復興を目指し事業家としての手腕を発揮することが期待されている。(ロイター)

◇中国外務省がイスラエルの入植批判

中国外務省の秦剛副報道局長は11日の記者会見で、イスラエル内務省が東エルサレムへの新規入植住宅建設を承認したことについて「強く反対する。イスラエルに計画の即刻停止と和平交渉再開の努力を求める」と批判した。「イスラエルとパレスチナの間接的な和平交渉再開に向けたカギとなる時期にあり、イスラ エルの動きは交渉の基礎を破壊し、国際社会の努力を損なう」と述べた。(中国総局

◇パレスチナ自治政府議長、宅地開発計画で間接和平交渉参加は困難

米国仲介による間接和平交渉開始にパレスチナ自治区とイスラエルが合意した問題で、アッバス自治政府議長がイスラエルが占領地東エルサレムで新たな宅地開発計画を承認したことに反発、これを撤回しない限り、和平交渉への参加は困難との立場を表明した。

自治政府当局者によると、議長はアラブ連盟のムーサ事務局長と会談した際、この方針を表明した。議長はまた、米国に対しイスラエルに新宅地開発計画を断念する働き掛けることを求めたという。

間接和平交渉の合意は8日で、イスラエルは翌9日に1600戸の宅地開発計画を発表していた。アッバス議長の不参加の発言で交渉の行方は早くも不透明になってきた。

宅地開発計画の承認は、入植支持派のイスラエルのイシャイ内相の一方的承認で、ネタニヤフ首相は同内相を呼び、不快感を表明したともされる。同首相は昨年11月、和平交渉再開のため、ヨルダン川西岸での入植者住宅の新規建設を10カ月間凍結するとの方針を発表している。ただ、東エルサレムは対象外だった。

新たな宅地開発計画承認では、中東歴訪中のバイデン米副大統領も10日、会見でイスラエル側を強く非難していた。

パレスチナ自治政府は、和平交渉の開始でイスラエルによる入植計画の全面凍結を条件にしている。

(CNN 2010年3月10日)

2010/03/10

フランス人はKitanoがわかる




◇北野武氏に仏芸術勲章 展覧会も開催へ

フランス文化省は9日、映画監督でタレントの北野武(ビートたけし)氏に仏芸術文化勲章の最高章コマンドゥールを授与すると発表した。同日ミッテラン文化相から授与される。パリでは北野氏の展覧会「絵描き小僧」が11日から9月12日までカルティエ現代美術財団で開催される予定。

9日にパリで記者会見した北野氏は「自分が楽しいと思ったことを作品にした。みなで共有してほしい」などと語った。

展覧会では北野氏が制作した絵画や劇中画、オブジェなどを展示する。北野氏は仏では映画監督として知られるが、今回の展覧会では画家やコメディアンとしての活動にも焦点があてられている。一方、パリの現代美術館ジョルジュ・ポンピドー芸術文化センターでは11日から約3カ月間、北野氏が監督した映画作品の連続上映会が開かれる。

(日本経済新聞 2010年3月10日)

◇映画「その男、凶暴につき(Violent Cop)」「ソナチネ(Sonatine)」「HANA-BI」などで世界的に有名な北野武(Takeshi Kitano)監督。監督業だけでなく俳優、コメディアン、テレビ番組の司会など多彩な顔を持つ同氏の新たな側面を浮き彫りした自伝がフランスで24日に発売される。本のタイトルは「KITANO PAR KITANO(キタノによるキタノ)」。フランス人ジャーナリストのミシェル・テマン氏との共著だ。



北野氏は同書の出版を前にAFP通信のインタビューに応じ、幼少時代に育った土地や彼を取り巻く友人・家族、生い立ちなどを語った。



・ヤクザにならなかったのは母親のおかげ



戦後間もない1947年に生まれた北野氏は、都内足立区の貧しい家庭に育った。賭け事と酒が好きだったペンキ職人の父親は、4人の子どもたちと過ごすことはほとんどなかったという。



人間の暗部を描いた映画で日本の「ヤクザ」を世界に知らしめた北野氏だが、母親がいなければ自分もヤクザになっていただろうと語る。



「その地区は・・・ニューヨークで言えばブロンクスみたいなところだから。・・・お袋の教育がなかったらそういう世界に入った可能性もあるし。ただ、知ってるかぎりほとんどの奴がチンピラで終わってるか、殺されてるから、悪い世界に入っても偉くはなれない土地だと思う」



教育熱心な母親の影響で数学や科学に興味を持った北野氏は大学に進むが、学業よりもショービジネスの世界に魅せられていく。その後、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で芸人としてデビュー。紆余曲折ののち漫才師「ビートたけし」として頭角を現し、あっという間に週8本ものレギュラー番組を抱える人気テレビタレントになった。そうした中ある偶然から映画監督を引き受けるが、やがて世界的な映画監督として高い評価を受けるようになる。



・映画監督として高い評価



批評家は北野氏を粗野で通俗的だと批判するが、同氏はこう反論する。



「傷つくよりも怒る。あまりにも無知なんで。特にスタンドアップコメディアンで上がってきた時の、彼らの評価の仕方と内容に対する意見がまるっきりでたらめなんで、それからずっと、あいつらは信用できないと思っている」



監督デビュー作品「その男、凶暴につき」は絶賛され、批判する者たちを黙らせた。93年の第4作「ソナチネ」は国際的に高い評価を受ける。



翌94年のバイク事故では九死に一生を得るが、顔面の一部が麻痺するけがをした。事故の際は真っ暗な一本道の明かりの下に倒れていたのでひかれずにすんだうえ、免許証から身元が分かり病院ですぐプロジェクトチームができたと話し、「そういう意味でよく生きていたなぁと。ちょっとこんなに物事がうまく運んだのかと」と当時を振り返る。



カムバック後は精力的に監督業に取り組み、98年の「HANA-BI」ではベネチア国際映画祭のグランプリを獲得した。



・画家としてパリで美術展も開催



今年フランスでは、北野氏の自伝出版のほかにも、同氏に焦点を当てたさまざまなイベントが開催される。ポンピドー芸術文化センターでは「北野武大回顧映画特集」が、さらにカルティエ財団現代美術館で絵画展が開かれる予定だ。



北野氏は自身の絵画展について「あの絵をみて、趣味以上だとオレがもし言ったとしたら相当みんなに笑われると思うけど(笑)。カルティエでオレの絵を飾るということ自体が、相当まずいなと思ってるんだけど」「だから子供の絵だって言うんならいいけど、まともな画家の絵だなんて言ったら、ほんとに困る。ほんとに恥ずかしいと」と語った。

(AFP/Gilles Campion 2010年2月20日)

写真は映画「3−4×10月」海外では「Boiling Point」と「ソナチネ」のポスター(office-kitano websiteより)

2010/03/09

イラク戦争支持は国際法違反



◇イラク戦争は違法と2001年にブレアが警告

チルコット審問(イラク独立調査委員会のこと:議長の名を取ってそう呼ばれる)によって差し控えられる秘密文書が侵攻について外務省の不安を明らかにする



侵攻は違法になる、「多数の犠牲者」とイラクの崩壊に導きかねない、と主張する外務省の有力な官僚の警告に加えて、イラク侵攻は軍事行動が取られる2年以上前に政権内で議論されたことを、インディペンデント紙は明らかにできる。

ゴードン・ブラウンが侵攻という政府の決定での彼の役割を説明するよう求められるイラク審問に出廷するちょうど3日前、結局はトニー・ブレアによって支持された政策にある程度まで抵抗する英国政府の政策が出現する。

2000年の終わりに上級公務員によって作成された秘密の外務省戦略文書はこの新聞によって入手され、本日初めて公表される。イラク:将来の戦略文書は好戦的なイラク指導者サダム・フセインと交渉する選択肢を考慮する。それはジョン・チルコット卿のイラク審問が発表を辞退してきている欠かせない重要文書のひとつだ。

「政権打倒」の政策は提案されるが、きびしく糾弾される。軍事行動を取ることの結果についてびくびくおびえた不吉な査定でこう述べる。「そのような政策は有益な国際的支持を少しも集めません。成功する表だった攻撃はたぶん国土侵略を含める大規模な軍事行動を必要とするでしょう。これは多数の人的損害と、ひょっとしたらサダムによる抑止力かまたは大胆な抵抗の、最後の最後まで戦う極端な行為の危険を冒すことになります。」

有力な官僚が付け加える。「それはまた違法でもある。これに反して、内密の攻撃が成功するようにはとても思えないしイラクをばらばらにする危険を冒す、それは明らかにその地域の私たちのもっと広い利権と相容れないものとなる。」2003年3月の侵攻の結果としてイラクは暴力に身を落とした。100人以上のイギリス軍に加えて数十万のイラク人が侵略直後の時期に殺された。

文書はまた、サダム・フセインを倒すのに軍隊を使うことはもっぱらニューヨークの9.11テロ攻撃後に議論されたとのブレア氏の主張に疑いを差しはさむ。そしてこの夏、さらなる公開証拠を示すためにブレア氏を再び審問にかけることで審問への圧力を強めることだろう。

自由民主党の党首ニック・クレッグは、それは英国をイラク戦争へ持っていくブレア氏の決定に反対して「さらにいっそう有罪を証明する証拠」だと言った。彼はまた、文書がチルコット審問によって公開されなかったという事実が、国家機密などにかかわる微妙なデータを明らかにする能力に関し「重大な疑問」を起こさせたと警告した。政府は機密文書の公表を差し止める権限を保持してきている。チルコット・チームと英国政府との間で合意した冒頭の定式文は、異議を唱えられる文書の公表では最終決定権を行政長官ガス・オドネル卿に与える。
 
情報自由法を使って文書を確保する要求は最初拒否された。しかしながら、インディペンデント紙が内部調査を要求した後、ついに外務省は米国と他の国々の見解を黒で塗りつぶした編集版を公表することに同意した。「文書の公表は政府をもっと説明できるようにさせて信頼を増させる」と外務省は容認した。「大臣やその後の意思決定に与えられる忠告の質を査定できるという公益がある。」

戦争に頼る決定を批判する者たちは文書に乗じた。「私たちを戦争に従事させる政府の核心における彼の役割をゴードン・ブラウンが擁護しようとする数日前、これはイラク侵攻を正当化しようとの試みに反対して、さらにいっそう有罪を証明する証拠である」とクレッグ氏は言った。「政権交代は違法で私たちの国益に反すると、外務省は、はっきり忠告されていた。」

ジョージ・W・ブッシュをホワイトハウスに導いた2000年11月の大統領選より先に、戦略文書は、当時の外務省中東政策の指揮者William Patey卿によって依頼された。

兵器査察官のイラクへの出入りを許すよう求める1999年の国連決議は、「瀬戸際でほころびを見せ始めて」おり、「威信を失う」のはわけない、査察官との協力でサダムを見捨てる、という話だ。しかしながら、それはサダムを「牽制する(封じ込める)」政策を勧め、できたらバグダッド政権に押しつけられる制裁を緩めることを忠告して「イラクの方に向かう私たちの政策目標達成のため最良の選択肢」を残す。それはこう結論を下す。「この段階で他の代案はパッとしない」ままであると。

(インディペンデント紙 02 March 2010
by Michael Savage, Political Correspondent)
 
▲写真は問題の文書(インディペンデント紙)
画像をクリックすると拡大版で見ることができます

◇イラク戦争検証 欧州から学ぶべきもの

イラク開戦から7年ーー。米国と連携した英国は戦争遂行の是非をめぐる検証を進め、5日にはブラウン首相が証人喚問に臨む。“大義なき戦争”に向き合おうという姿勢には見習うものが多い。

イラク戦争はブッシュ前米政権が英国と始めたが、大量破壊兵器の開発や国際テロ組織アルカイダとの関係という疑惑は“幻”だった。開戦以来の死者は、米軍が中枢同時テロ犠牲者数を上回る4千人を超え、英国兵士は200人近く、イラク国民に至っては約10万人にも上る。歴史的汚点だろう。

目下国家再建が進行し、オバマ米政権は米軍撤退にかじを切ったが、戦争を客観的に総括するほどの余裕はない。

ところが英国は違った。戦争の正当性や占領政策に疑問を持つ世論や野党の突き上げからにせよ、ブラウン首相が昨年7月、歴史学者や元外交官ら5人からなる独立調査委員会を設立。政府の機密書類を精査し、公聴会で政治家、外交官、軍、情報機関幹部を喚問し、世界の耳目を集めてきた。

「イラクは生物化学兵器を保有し45分以内に攻撃できる」。開戦前のブレア首相報告だ。ブッシュ政権も「イラクのウラン(核兵器の燃料)入手を英政府が突き止めた」と断じた。だが公聴会で外務省元幹部は「その情報は精度の高いものではなかった」、元法務長官は「開戦の合法性は疑問」と首相に伝えたと証言した。

これに対し、1月末に登場のブレア氏は「フセイン政権の危険性を放置できなかった。開戦判断に誤りはなかった」と反論。開戦当時、ナンバー2の財務相だったブラウン首相も5日証言する。

実は復興支援で部隊派遣したオランダがやはり独立調査委員会をつくり、同様の検証を先行させ、このほど「イラク戦争への政府の支持は国連決議に基づかず国際法違反だった」と結論づけている。

日本では自民党小泉政権が開戦を早々と支持、復興支援への自衛隊派遣をめぐる議論などが国会でなされはしたが、第三者的な委員会で検証する動きは見られない。

国柄や歴史観の違いは当然あるにせよ、民主主義を標榜(ひょうぼう)することは同じである。民主主義は国家のしたことを国民が知り、省みることができてこそ成立する。日本の地域紛争への対応や支援は今後も予想される。憲法や国際法を踏まえた検証の不可欠なことを欧州は教えているのではないか。

(中日新聞社説 2010年3月5日)

2010/03/08

マンハッタン少年日記にあこがれて



昨年9月に亡くなったジム・キャロルの追悼記事 時間が経過してますが... 
やはりビートジェネレーション、パンクムーブメントへのあこがれもあって
行ったニューヨークシティ 記録しておこうと思います

◇「バスケットボールダイアリーズ(邦題:マンハッタン少年日記)」の作者、パンクの羨望の的、ジム・キャロルが60歳で死す

その人生談が、自叙伝「バスケットボールダイアリーズ:マンハッタン少年日記」の中で誰もが知っているとおり詳細に記述された詩人でパンクロッカーのジム・キャロルが、2009年9月11日、ニューヨークシティで心臓発作のあとに死んだ。キャロルは60歳だったとニューヨークタイムズ紙は報じる。1960年代ティーンエイジャーとしてドラッグ濫用で苦闘するキャロルを詳細に叙述する「バスケットボールダイアリーズ」は大学進学予備校のバスケットのスターから売春に頼るヘロイン中毒へと彼の転落を描写する。すべてはキャロルが17歳になるより前だった。1995年のこの本の映画化でレオナルド・ディカプリオがキャロルを演じた。「バスケットボール」のほかにも、キャロルの他の注目に値する作品には、「4 Ups and 1 Down」や1973年の「 Living at the Movies」がある。

詩人としての地位を確立した後、キャロルは友人パティ・スミスに幾分うまくのせられて今度は音楽に転向した。キャロルはローリングストーンズのキース・リチャーズの目にとまった、キースはジム・キャロル・バンドが3枚のレコード契約を確実にするのに助力した。彼らのファーストアルバム、1980年の「カソリックボーイ」はニューヨークパンクシーンの画期的事件とみなされる。キャロルは続いてもう2枚のLP、1982年の「Dry Dreams」と1983年の「I Write Your Name」で第一歩となった。それにまた、1998年には4枚目のアルバム「Pools of Mercury」を出した。

映画「バスケットボールダイアリーズ」のサントラでも彼の歌「カソリックボーイ」のニューバージョンでパール・ジャムとコラボするキャロルを見つけた。カソリックボーイはあまりにも早く死んだキャロルの友だちに寄せる抒情詩、キャロルの「People Who Died」はまた、スピルバーグの「ET」のサントラでも特別扱いされた。

「私は1970年代に彼と出会った。すでに彼はほとんど例外なく彼の世代のベストの詩人として受け入れられた」と、今週末のニューヨークタイムズ紙にパティ・スミスが語った。「作品は洗練されていてエレガントだった。彼には絶妙なくだり(すぐれたところ、美点)があった。」ローリングストーン誌は「Pools of Mercury」発売の翌年、1999年にジム・キャロルと対談した。そのときキャロルは、歌を書くプロセス、「バスケットボール」のインパクト、ビート詩人アレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズの死、カート・コバーンとの出会いを論じた。

(RollingStone 14 September 2009)

◇ジム・キャロルを回顧 ~感謝~

彼はバスケットボールの語り草、詩人、ミュージシャン、そしてとりわけ友人だった。「他の誰よりも君を恋しく思う」と彼が言うくらい。

金曜日マンハッタンで60歳で心臓発作で死んだジム・キャロルは13歳のときには伝説的人物だった。それは、詩人のテッド・ベリガンが彼を連れてジャック・ケルアックを尋ねたときだ。ケルアックはジムの書いたものに目をやって、「ジム・キャロルは、今日書いている小説家の89%よりましな散文を書く」と言ったのだ。

でも、ボクは彼のバスケットの語り草に少なくともそのくらい引きつけられた。近隣がまだアイルランド語だったとき、ジムはオヤジが密造者ダッチ・シュルツのためにバーの仕事をしていたと言った、マンハッタン北端のインウッドへ家族と共に引っ越したローアーイーストサイドで育った子が、奨学金をもらってエリート校トリニティスクールへ、続けてどんどんニューヨークの街全体を申し分のないものにするただひとりの白人の子になっていく、それから、きわめて多彩な大学の奨学金を断って、ローワーイーストサイドに戻り、ヘロインを打って、容赦のないポエトリーの偶像を追い求める。


(LATimes 16 September 2009 by Lewis MacAdams)

◇ジム・キャロルの死が詩に空虚を残す

ヘロインはジム・キャロルが十分な可能性に届くのを妨げていたかもしれないが、詩の神童として彼の遺産に異論はない。

先週のジム・キャロルの死でアメリカは非凡で最も過小評価された詩人の声のひとつを失ってきている。彼の最も人気のある作品「バスケットボールダイアリーズ」で描写されるように、それと見合う美しいアイルランド人のルックスを持つアイルランド系アメリカ人のバーテンダーの3代目の息子、キャロルは、ニューヨークのローアーイーストサイドで育った。エリート私立学校でオールスターチームのバスケットボール選手として十代の二重生活や、持ち上がるヘロイン中毒とジャンキーのシーンを取り囲むストリートライフを詳細に叙述した日記を12歳でつけはじめる、彼は詩の神童でありそれと対照をなす男でもあった。

ランボーやフランク・オハラといった人たちに鼓舞されて1965年セントマークスプレイスでワークショップに参加し始めて一年後の16歳でデビュー作品「Organic Trains」を出版した。特にヘロイン中毒の資金調達のため時たまタイムズスクエアーのコールボーイとして働いてもいた16歳にしては大きな手柄、パリレヴュー誌に「バスケットボールダイアリーズ」からの抜粋が出た。

バロウズやケルアックのような人たちに彼を紹介し、キャロルをかばったのは詩人のテッド・ベリガンだった。キャロルの上昇は、アンディ・ウォーホール、ベルベットアンダーグラウンド、ロバート・メイプルソープ、パティ・スミスを生産した時代、60年代後半から70年代初頭のマンハッタン・ダウンタウンに集中した文化的爆発とまったく一致した。ある日ボブ・ディランと酒を飲み、翌日はアレン・ギンズバーグの口説きをかわすなど、キャロルは彼ら全員から大いに敬意を表された。それはのちほど、まず間違いなく彼の最強の散文コレクションの「Forced Entries: The Downtown Diaries 1971-1973」に詳細に記録される。

次に、少なくとも確かに財政的に詩よりもうかる音楽的キャリアをキャロルが享受したとき、それは意外でもなんでもなかった。 だが、ロックミュージックはキャロルにとって実は常にありがたい気晴らし、副業なだけだった。彼のハートが内面的な文学の世界にあるのは明らかだったし、彼の作品はある核心のテーマ、宗教とカトリック教信仰、夢、麻薬常用癖、ニューヨーク、幼年期と思春期、死、サバイバルに回帰し続けた。

キャロルの詩の作品数はスリムだった。20年で3冊の詩集を出版した。1973年「 Living At the Movies」、1986年「The Book Of Nods 」、1993年「Fear Of Dreaming」、けれども彼が出版したすべてが辛辣で、啓発し、人を高尚にした。MTVが彼を番組に招いたとき、彼は主流にスタイルを移すほんの少数の現代詩人のひとりだった。彼はまた1993年Lollapaloozaツアーでバンドとバンドのあいだに詩を読んだし、1995年に再びMTVに登場し、見覚えのあるダウンタウンの調子で「カート・コバーンのための8フラグメント」を読んだ。

キャロルが十分な可能性に届くのをヘロインが妨げている感じは変わらなかった、彼はある批評家たちが予言した「80年代のディラン」ではまったくなかった。けれども彼にユニークな詩の観点を提供したのもまたこのアウトサイダーのステイタスだった。「この想像力がそんな高度を必要とするとは嘆かわしい」と彼は書いた。「むしろ私は残りの全部とうまくいくほうを選んでいるだろう。」最後に、はっきりしている事実:彼の朗読会は頻繁に売り切れた、アーヴィン・ウェルシュ、トニー・オニールといった作家や映画作家ハーモニー・コリンへの彼の影響は明白、そして先週彼が書斎で死んだとき、ウォーホルがアートでそうだったように、ベルベットアンダーグラウンドが音楽でそうだったように、彼は20世紀後半のアメリカ文学の代表として充実した内容の作品をあとに残した。

(Guardian.co.uk)

スタバはガンマンのたまり場




◇米スターバックスで銃議論、持ち込みを禁止しない姿勢に賛否両論

米コーヒーチェーン大手スターバックスが利用客の銃持ち込みを禁止しない方針を続けていることが発端で、銃規制派と銃支持派で議論が巻き起こっている。

米国では43州で銃器類の持ち運びが合法となっている。しかし、各商店などは各自の基準で、店内に銃器類の持ち込みを拒否することができる。

スターバックスも州法などに従い、店内への銃器類持ち込みを禁止していない。そのため、各店舗にはおおっぴらに銃器類を持った客が集まるようになった。

銃規制派団体は、スターバックスのハワード・シュルツ最高経営責任者(CEO)あてに、銃持ち込みを禁止している他のチェーン店と同様、規制を求める書簡を送付するなどの運動を続けている。

しかし、スターバックス側は「お客さまからのご意見は真剣に受け止める」「地元の法に基づいてサービスを提供している」と、銃持ち込みなどを今後も禁止しない立場を示している。

この対応に、銃所持の権利を主張する団体は「感銘を受けた」など称賛。支援の気持ちを伝えるために、スターバックスを今後も利用していくと述べている。

(CNN 2010年3月5日)

◇「オープンキャリー」に理解の動き

スターバックスをはじめとする米国の複数のチェーンストアは今、銃器の携行をめぐる激しい議論の板挟みになっている。米国では、公共の場で銃のオープンな携帯を促す運動が急速に広がっており、銃規制支持者とまっ向から対立している。

日常生活のあらゆる場で銃を見える状態で携帯することを促す「オープン所持」ムーブメントは、全米で緩やかに広がってきたが、ここ数カ月でその勢いを増 している。銃規制支持者は、ムーブメントの沈静化を図るべく、スターバックスコーヒーチェーンへの嘆願書の提出を含め、さまざまな圧力をかけている。

最終的な決定権は建物や場所を所有する企業側にある。だが、スターバックスのように銃の持ち込みを規制していない店舗は、オープン所持支持者のたまり場と化しつつある。

スターバックスは3日、議論の渦中に身を置く結果となっていることについては残念だとしながらも、オープン所持を許可する各州法に従うという同社の長年の方針については擁護する姿勢を示した。その根拠の1つとして、店内への銃の持ち込みを禁止した場合、従業員が危害を加えられる可能性があることを挙げた。同社によると、オープン所持を合法化している全米43州には、4970のスターバックス店舗がある。

同社は、「これらの問題をめぐる政治的、政策的、法的議論は立法府と裁判所でなされるべきであり、スターバックスの店舗でなされるものではない」と述べた。

こうした動きの背景には、このところ「銃を持つ権利」を支持する側が、さまざまな場で相次いで勝利を収めていることがある。昨年5月、共和党が国立公園内の連邦銃器規制を解除する規定を付加したクレジットカード規制法案がオバマ大統領によって署名された。

また、ワシントン市コロンビア特別区の拳銃所持を禁止する法律が部分的に米国憲法修正第2条(人民の武装権)に違反するとの判決が2008年に合衆国最高裁によってなされたが、2日に行われた修正第2条の全米への適用拡大に関する審理では、最高裁判事の過半数が全米で州や地方の銃規制を緩和する意向を示した。この裁判の判決は今年6月までに下される見通し。

現在29州で、弾丸を装填した拳銃を、無免許で見える状態で携帯することが合法化されている。オープン所持ムーブメントを支持するオンラインフォーラム「OpenCarry.org」によると、残り13州では、免許を取得した上でオープンな所持が認められている。

カリフォルニア州では、弾丸を装填しない限り、無免許で拳銃をオープンに携帯することが許されているが、拳銃を見えない状態で携帯することへの規制が不公平であることへの抗議の証しとして、拳銃をベルトに装着したホルスターで携帯し、スターバックスやレストラン、小売店などに現れる人が増えてい る。

オープン所持の支持者は、ウィスコンシンやミシガン、ペンシルベニア、ルイジアナといった州にも広がっている。なかには、「オープン所持に寛容な」店舗のリストを作成し、銃の持ち込みを禁止する店舗での不買運動を推進しているものもいる。小売最大手ウォルマート・ストアーズ、ホームセンター大手ホームデポ、家電販売チェーン大手ベスト・バイ、書籍販売大手バーンズ・アンド・ノーブルは、一部のオンラインフォーラムでオープン所持に寛容な店舗として指定さ れているか、あるいは既存の法律を順守すると述べている。ベスト・バイの広報担当者は「地方・州の法律に準じることを方針としている」と述べた。

オープン所持の支持者は、銃を持つ権利の適用拡大を促す州議会の動きも利用している。ただし、そのほとんどが、銃のオープンな携帯に関する問題を特に扱っているわけではない。

400万人の会員で構成される全米ライフル協会(NRA)は、過去20年にわたって、拳銃を見えない状態で携帯できるようロビー活動を行ってきた。

現在38州で、犯罪歴や精神障害を持つ市民以外なら申し込み次第、見えない状態での銃の携帯を許可する「シャル・イシュー法」に基づく免許制度を設けている。2州については免許の取得は必要なく、8州では地元の議員や警察の裁量によって許可する「メイ・イシュー法」を設けている。

NRAの広報担当者は「われわれは、地域、州、連邦の法律に従って、法律を順守する米国民の自己防衛権を支持する」と述べ、オープン所持に対するそれ以上のコメントは控えた。

だが、オープン所持を合法化している州でも、銃を所持しない顧客への配慮から、店内への銃の持ち込みを禁止しているレストランチェーンもある。

ピザチェーン大手カリフォルニア・ピザ・キッチンの広報担当者は「当店では、あからさまな銃器の所持が、特にお子様やお子様連れのお客様に不快感を与えることを懸念している」と述べた。

銃規制を求める市民団体「Brady Campaign to Prevent Gun Violence(銃暴力を防ぐブレイディ・キャンペーン)」は、携帯電話を活用した社会運動の推進団体「クレドアクション」とパートナーを組んで、2万8000人を超える署名を集め、スターバックスに方針転換を要求する嘆願書を提出したと述べた。

ワシントンDCを拠点とする銃規制団体「Educational Fund to Stop Gun Violence(銃暴力抑制教育基金)」の事務局長、ジョシュア・ホルヴィッツ氏は「顧客が銃器を見える状態で店内に持ち込むことを許すのは、商売上好ましくない。顧客を刺激することになるうえ、一部の客離れにもつながる」と述べた。

実際、スターバックスのすべての従業員が、同社の方針に同意しているわけではない。スターバックスの従業員で、同社の労働組合員でもあるエリック・ フォーマン氏は「会社の方針は従業員の安全と感情をまったく無視している。フラペチーノの仕上がりに文句をつける客もたちが悪いが、銃を片手にフラペ チーノの仕上がりに文句をつける客はもっとたちが悪い」と語る。

世界産業労働組合(IWW)に加盟するスターバックスの労働組合は3日、声明で「われわれは、節操ある個人によって、問題の両面から活発な議論が交わさ れていることについて感謝している。だが、これまでのところ、スターバックスにはオープン所持法によって直接影響を受ける自らの従業員に広く働きかけようと努力する様子はみられない。したがって、このままでは、適切な解決策が得られるとは決して思えない」と述べた。

(ウォールストリートジャーナル 2010年3月4日)

写真はスターバックスの本拠地、ワシントン州シアトルで、銃規制に対する抗議活動を見守る銃の「オープン所持」支持者たち(AP)

◇イスラエルが東エルサレムの家屋取り壊しを遅らせる

イスラエルと占領地では、イスラエル政府がバスタンの近所の東エルサレムにあるパレスチナ人の家屋を解体する計画を遅らせてきています。1世紀以上ものあいだパレスチナ人家族が居住した家屋の土地に考古学パークを建造することでイスラエル当局はせきたてています。イスラエルの国際的イメージにふりかかる懸念を挙げて、イスラエルのネタニヤフ首相が取り壊しを遅らせるようエルサレムの市長に求めました。イスラエルの人権グループIr Amimのスポークスマン、オルリー・ノイはその解体計画を批判しました。
オルリー・ノイ:「エルサレムにおけるイスラエル・パレスチナ紛争の最も一触即発のエリアの、最も敏感で不安定なエリアにあるほぼ90家屋の大規模取り壊しを含めるどのような計画も、その都市の政治的将来と目下の安定の両方にすこぶる危険だと私たちは考えます。」

◇国連人道問題担当最高責任者:ガザは「野外刑務所」

同時にガザでは、国連の人道問題担当最高責任者(人道問題担当事務次官&緊急援助調整官)がパレスチナ人を「野外刑務所」に閉じ込めることでイスラエルを非難しました。ジョン・ホームズは火曜日ガザを見てまわった後、ニュースネットワーク、アルジャジーラの英語番組に登場しました。
緊急援助調整官ジョン・ホームズ:「彼らは一種の野外刑務所に住んでいます。今ではもう3年間罰せられてきているこの種の集団懲罰を彼らはまだ受けてきています。そしてそれは意図とは逆の結果を招いています。イスラエルにとっても含め、逆効果です、というのもそれはもっぱら絶望を育てるからです。ガザでの目的がなんであれ、彼らの目的の助けになっていません。従って、確かに変化する必要があります、実際、非常にすばやく変わらなければなりません。それが主要なポイントだと私は思います、そして彼らがこれまで採用してきている態度の類を再考してくれるものと私たちは真に期待します。」

◇2009年右翼の過激派グループが244%の伸び

国内の右翼の過激派グループの数で米国が大きな上昇に遭遇していると新たな報告書は書いています。南部貧困法律センターによると、反政府「愛国者」グループが2009年に512団体まで増えました、244%の増加です。右翼の武装組織(民兵組織)が同期間に127と3倍に増えました。

◇ロサンジェルスが教師5200人の一時解雇を通告

カリフォルニアでは、ロサンジェルス公立学校委員会が6億4000万ドルの予算不足額のまっ最中に大量レイオフについて教師に通告する準備をしています。火曜日、ロスの統一される学区は、教師5200人まで、ありうるレイオフの通知を送ることを票決しました。

◇最高裁がワシントンDCの同性愛結婚法に反対を声明するのを拒絶

そしてコロンビア特別区の同性愛婚の合法化を妨害する行動を最高裁が退けてきています。ゲイの権利の対抗勢力(反対者)は、訴えを保留にしてその地区が法律を制定するのを妨害しようと努めてきていました。最初の結婚許可証は今日発行されると思われます。

(以上、デモクラシーナウ!03 March 2010 ヘッドライン)