見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2010/07/24

To Shooting an elephant



◇To Shooting an elephant:象の射殺

・概要

 「. . . のちに、言うまでもなく、象の射殺について果てしのない論議があった。像の飼い主は激怒したが、彼はただのインド人で何もできなかった。その上、私は合法的に正しいことを行ってきている、狂暴な象は、飼い主が抑えられなければ、狂犬のように息の根を止めないといけない。」

 「To Shooting an elephant」はガザ地区からの報告の目撃証人だ。2008年12月27日のキャストリード作戦、21日間の象の射殺。パレスチナの一般市民と一緒に、ガザ地区の救急車内に埋め込まれたままでいることに決めて処理する、唯一の外国勢からの不眠の差し迫った映像、卑劣で、ぞっとさせる映像である。
(ジョージ・オーウェルの「Shooting an elephant」は元々、1948年New Writing にて出版される。)


・背景

ガザ地区は、イスラエルが「敵なる存在」と公言した2007年6月以来、包囲下に置かれる。国際的な活動家グループが包囲を破る運動、”フリーガザ運動”を組織した。彼らの尽力のおかげで、現場でキャストリード作戦を報道して目撃する外国人記者と人道支援活動家へのイスラエルの禁止(追放)にもかかわらず、国際的な志願者グループ、”国際連帯運動(International Solidarity Movemen)”の自ら組織したメンバーたちが爆撃が始まった2009年12月27日にガザにいた。アルジャジーラ・インターナショナルの2人の国際通信員(Ayman MohyeldiとSherine Tadros)と共に、包囲されるパレスチナの細長い土地の内部でなにが起こっていたか、いくつかのラジオ局のためにどうにかして記録し、撮影して、報告する、彼らは唯一の外国勢だった。

彼らはジャーナリストだった?彼らは活動家だった?だれが気にする!彼らは目撃者になった。ジャーナリストも、あなたがどう感じるか次第の者もみな。あなたがどうにかしてより広範の視聴者にあなたとあなたの周囲にいる人たちが経験することを共有させることは道義にかなう責任だ。ジャーナリストであってもなくても、もっと正確に言えば想定以前、呼び名以前の、それはあなたをプロの職業に至らせるあなたの腕前に係るものだ。

視聴者に知らせる。あなたが聞いて知ってもらいたい人々にあなたが気づいたことを聞かせて知らしめる。すなわちジャーナリストだ。 プレス(報道機関)と書かれた名刺を持っているのも、本俸をもらうのも、カメラまたはペンを使って目撃者であることに必要不可欠ではない。中立性は無視しろ。客観性は無視しろ。私たちはパレスチナ人ではない。私たちはイスラエル人ではない。私たちは偏見を持つ。私たちはただ正直でいようと努めるだけで、私たちが見たことや私たちが知っていることを報道しようと努めるだけだ。私はジャーナリストだ。だれかが傾聴するなら私はジャーナリストだ。ガザの場合、「公式のジャーナリスト」は(すでに中にいたジャーナリストを除いて)ひとりもガザに入るのを認可されなかったので、私たちが目撃証人になった。それに関して全責任を有している。

私は常にジャーナリズムを「暗い部屋の中のあかりをひねる手」と理解してきている。ジャーナリストは好奇心の強いやつ、疎ましい質問者だ、反感を持つカメラとペンが政権を握る人たちを居心地悪く感じさせる。しかもそれがガザでの私の仕事のコンセプトだ:世界中で最も語られる争いで任務を遂行すること、ハマスによって発射されるロケット弾に対する仕返しで領土の全住民の上にイスラエルによって負わされている包囲と集団的懲罰の説明は、決して十分な正確さで語られることはない。このために、人の記憶(記録)に残される必要がある。イスラエルが私たちを入れさせないよう企てて、私は政権を握る連中によって「体よく」退去するよう求められたにもかかわらず、私はガザ内部にこっそり入った。すなわち私のジャーナリズムの思想である。彼であれで彼女であれ、誰かが見事に理解することを今にも掲載しようとしてカメラだのペンを持って歩き回ることについて世界中すべての政府がびびる。民主主義の重要な柱のひとつ、情報の為に。
 
これは埋込み型のフィルムである。軍隊の内部にはめ込まれるジャーナリストとの想像上の意見交換で見えてくる、「救急車の内部に埋め込まれる」ことで、私たちは解決した。一人残らず彼らが報道したい側を自由に選択できる。けれども判断には往々にして偏見があるものだ。撃って傷つけて殺すことが仕事の連中より、負傷者の救助に従事する一般市民のほうが状況の正しい見方をはるかにありのまま提供してくれるものと私たちは判断した。私たちは軍人と言うより衛生兵の方を好む。私たちは武器を持った連中より武器を持たない救助者の勇敢の方を好む、また興味深くはあるが、殺すため入隊する人の経験談を道義上拒絶できる。それは焦点(的を絞る)にかかわる問題だ。恐怖やトラウマ、選択の自由のある連中の反論に私は関心がない。故国にとどまる選択の自由や戦争反対と唱える選択の自由だ。

(July 20, 2010)
http://www.informationclearinghouse.info/article25972.htm

△Alberto ArceとMohammad Rujailahによるドキュメンタリーフィルム「To Shooting an elephant」ともっと詳細の記事は以下のサイトからご覧になれます。
http://toshootanelephant.com/

2010/07/22

餓死するマゼランペンギン



◇南米で厳しい寒波 20人死亡

日本は本格的な夏を迎えていますが、南半球の南米は厳しい冬の寒波に見舞われていて、少なくとも20人が寒さで死亡したほか、めったに雪が降らない地域でも記録的な大雪となり、市民生活に影響が出ています。

南半球にある南米大陸には、偏西風の影響で南極からの冷たい空気が大量に流れ込み、先週から厳しい寒波に見舞われています。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでは、先週、7月の平均の最低気温より8度ほど低い氷点下1度5分を記録し、路上で生活していたホームレスなど20人余りが死亡しました。このほか、パラグアイやボリビアでも死者が報告されています。また、めったに雪が降らないボリビア中部などでは記録的な大雪が降り、車が路上で立往生するなど、交通機関がまひして、市民生活にも大きな影響が出ています。こうしたなか、大西洋に面するブラジル・サンパウロ州の海岸では、およそ530羽のマゼランペンギンの死がいが見つかりました。生物学者が詳しく調べたところ、ペンギンの胃の中は空っぽの状態でした。マゼランペンギンはこの時期、南米大陸の南端から、温かい水温を求めてブラジル沿岸などに北上しますが、専門家は、潮流の変化や寒波による水温の低下によって、エサとなるカタクチイワシなどの魚が大幅に減り、ペンギンが餓死した可能性もあると指摘しています。

(NHKニュース 2010年7月21日)

◇ペンギンの死骸、大量に漂着

サンパウロ時事:ブラジル南東部サンパウロ州の海岸に20日までに、南米大陸の南部に生息するマゼランペンギンやウミガメなどの死骸(しがい)が大量に漂着した。原因は不明だが、大半が餓死しているため、寒波や気候変動によるとみられる海水温の低下で、食料となる魚が減少したことが影響しているもようだ。

報道によると、死骸で打ち上げられたのはマゼランペンギン530羽、イルカ5頭、 ウミガメ3頭など。マゼランペンギンはこの時期、アルゼンチン沖から餌を求めて北上するが、例年より低い海水温や強い海流で魚が減り、疲弊して餓死した可能性が強い。乱獲に起因する恐れもあるという。

(時時ドットコム 2010年7月21日)

写真はブラジル南東部サンパウロ州の海岸に打ち上げられたペンギンの死骸(AP)

2010/07/20

トップシークレット アメリカ



◇”トップシークレット(最高機密)アメリカ”


ワシントンポスト紙の調査が、大規模で手に負えない、外部委託されるアメリカ合衆国諜報システムをあばく

本日ワシントンポスト紙に掲載された一触即発の調査シリーズは、「2001年9月11日のテロ攻撃に応じて作り出す政府の最高機密の分野が、あまりにも広範で、実に手に余り、秘密主義のため、それにいくらかかるか、どれほどの人を雇い入れているか、内部に幾つの計画があるか、または幾つの政府機関が同じ業務を遂行するか、誰にもわからないほどになってきている」と始める。研究結果の1つで、概算85万4000人が最高機密の保全許可を所有する。1200余りの政府組織と2000近くの民間企業が1万の所在地で報復テロ行為、国家安全保障、諜報活動に関連したプログラムを手がける。

(デモクラシーナウ!19 July 2010)

◇トップシークレット(最高機密)アメリカ
人知れぬ世界、コントロールの及ばないところに右肩上がり
By Dana Priest and William M. Arkin

これらは、アメリカ合衆国に取って代わるジオグラフィーに等しいものをさがし出したワシントンポスト紙による2年の調査の研究結果のいくつかで、国民の視野から隠され、徹底して漏れのない最高機密アメリカだ。類のない支出と拡大から9年のちに、アメリカ合衆国を安全にしておくため、しかるべきところに置かれるシステムが、その有効性を決定するのが不可能なほどに肥大化する成り行きだ。

調査のほかの研究結果には以下が含まれる:

*約1271の政府機関と1971の民間企業が、アメリカ合衆国の至る所、およそ1万の場所で、報復テロ行為、国家安全保障、諜報に関するもくろみで働き続ける。

*ワシントンD.C.に住む人と同数の1.5倍近くが最高機密の保全許可を保有した。

*2001年9月以来、ワシントンとその周辺エリアに最高機密の諜報業務に備える33のビルの集合体が建設中かまたは建設されてきている。それらはひっくるめて、ほぼペンタゴンの3個分かまたはアメリカ国会議事堂の建物22個分に相当する約1700万平方フィートのスペースを占有する。

*多くの安全保障と諜報機関が同じ業務を行い、余剰とムダを作り出す。例えば米国15の都市で操業する51の連邦機関と軍司令部がテロリストネットワークへ行き来する資金の流れを追跡する。

*対外と国内のスパイ行為によって手に入れる文書と会話の意味を理解する分析者らは、毎年出版の5万の諜報機関報告書を介して彼らの判断を共有する、 たいへんな量なので多くがごく普通に無視される。

(ワシントンポスト紙 19 July 2010)

2010/07/19

エスコバルの息子




今朝の朝日新聞によると、コロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバルの息子がいま、父が殺害した犠牲者の遺族を訪ねる旅を続けている。エスコバルの長男、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの建築家フアン・セバスチアン・マロキン(フアン・パブロ・エスコバル)33歳は、「遺族に許しを請い、対話によって暴力の連鎖を私たちの世代で止めたい」と話している。

◇ブエノスアイレス:1993年に射殺されたコロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルの息子、フアン・パブロ・エスコバル氏が、出演したドキュメンタリー映画で父親が犯した犯罪を振り返り、謝罪の意を表している。

この映画は「Sins of my Father(父親の罪)」というタイトルで、アルゼンチンで今週始まる映画祭で上映される。

フアン氏は、父親が治安部隊に殺害された翌年にコロンビアを離れ、その後はセバスチャン・マロキンという名前で、建築家としてブエノスアイレスに暮らしている。

フアン氏はロイターに対し、「エスコバル一族の一員として、過去に起きたことの責任を受け入れ、父親の犯罪でコロンビアが受けたすべての被害について許しを請わなければいけない」と話した。

コロンビアでは、1980─1990年代に力を持った大規模な麻薬カルテルが衰退し、その後勢力を伸ばした密輸ギャング団と治安部隊とのせめぎ合いが続いている。

フアン氏が実名を明かすことにしたのは、そうした母国に和解をもたらしたいからだとしている。

かつて、世界最強の犯罪組織の1つだったメデジンカルテルを率いたパブロ・エスコバルは、敵対する組織メンバーなど数千人を殺害し、閣僚や大統領候補も暗殺。フォーブス誌によると、麻薬取引で築いた資産は30億ドルを超えていたという。

(ロイター 2009年11月12日)

世界有数の麻薬供給基地、南米コロンビアを支配するのは暴力の論理だ。豊富な資金とテロリズムを駆使した麻薬カルテルの力は政府を凌駕し、彼らに逆らう者は政府要人であろうとも容赦なく殺される。そのなかで頂点を極めたメデジンカルテルの頭目パブロ・エスコバルは、コカインをアメリカに大量輸出することで富を築き、1989年には「フォーブス」誌で“世界で7番目の資産家”とランクされるまで麻薬ビジネスを発展させてゆく。自国におけるコカインの蔓延を憂慮したアメリカ政府は、麻薬撲滅を掲げてコロンビアへの介入を開始。DEA(アメリカ麻薬取締局)、CIA、陸軍の精鋭スパイ部隊セントラスパイク、 対テロ特殊部隊のデルタフォースがコロンビア政府の結成した特捜隊を支援し、パブロの追跡・暗殺を目指す。だが入念に計画された急襲作戦も失敗を重ね、 卑劣なテロ攻撃による犠牲者が続出、殺害は困難を極めることにーー。
(「パブロを殺せ―史上最悪の麻薬王VSコロンビア、アメリカ特殊部隊」より)

△パブロ・エスコバル(19491月12日ー1993年12月2日):
メデジンの貧しい家庭に育った少年エスコバルは、頭の良い家族思いのやさしい子供だったが、10代で犯罪に目覚め、自動車盗、強盗、誘拐に手を染め始めた。その後、コカイン取引が金になることを知って、1970年代までに「 El Cartel de Medellín 」と呼ばれる強力な麻薬カルテルを築きあげた。


・カルテルの拡大

1980年代、メデジンカルテルは販売ルートを拡大し、ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインをメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んだ。その後も販売ルートを拡大して、南北アメリカ大陸や一部アジアとも取引するようになりコロンビア政府やアメリカ政府と激しく対立するようになる。
最盛期のメデジンカルテルは、世界のコカイン市場の8割を支配し年間最大250億ドルの収入を得ていたと見積もられ、エスコバル自身も世界で7番目の大富豪としてフォーブス誌に取り上げられたこともある。エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府の敵であったが、貧困層の住宅建設、サッカースタジアム建設などの慈善事業に熱心で、貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得て彼らの英雄となった。援助を受けたメデジン市民の中には、自ら警護役や見張役をかって出てエスコバルの身を官憲から守る者もいた。一時的ではあったが、国会議員を務めたこともある。

・テロ

1980年代後半、コカイン流入に頭を痛めたアメリカ政府は、「エスコバルの引渡しとアメリカ国内での裁判」を条件にコロンビア政府と協定を結んだ。これに激しく反発したエスコバルは「plata o plomo (贈賄か暗殺か)」と称し、政治家・役人・裁判官への贈賄工作を活発化させる一方、敵対者への暗殺・テロを敢行した。1985年に発生した左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件はエスコバルの関与が噂された。さらに1989年、メデジンカルテルは、大統領候補者3人の暗殺、アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビルの爆破を実行している。そしてライバル組織であるカリカルテルとの抗争も激化し、メデジン周辺は無政府状態に陥った。

・刑務所への収監

1991年に、政府や敵対者との抗争に疲れたエスコバルは、5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、自ら建設した個人用の 「La Catedral(教会)」と称される豪華な刑務所に収監された。サッカー場やディスコさえ備えられていた「La Catedral」での生活は快適で、エスコバルは今までどおり組織に指示を与え、メデジン市内に外出しては買い物やパーティ、サッカー見物を楽しんだ。1992年に「La Catedral」内での2件の殺人事件が表面化すると、さすがに世論も沸騰し、別の刑務所への移管が計画された。1992年7月22日移管の日、エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて「La Catedral」を出るとメデジン市中に姿を隠した。

・殺害

潜伏したエスコバルは、コロンビア政府、アメリカのデルタフォース、カリカルテルに追われる身となったが、独裁的なエスコバルの追い落としを目的とする 「Los Pepes(パブロ・エスコバルに虐待された人々)」と称する闇のグループからもつけ狙われた。「Los Pepes」は、エスコバルの家族や手下300人以上を殺害してメデジンカルテルに大打撃を与えた。犯行現場には必ず「Los Pepes」の署名を残したという。エスコバルは味方には多くの恩恵を与えたが、敵対者を殺害する前に指を切り落とすなどの残虐行為を犯したため、多くの人々の恨みもかっていた。
その後政府はエスコバルの一部の家族の身柄を確保し、さらに1993年12月2日、コロンビア治安部隊の電波調査斑が中産階級住宅街の隠れ家から息子と携帯電話で通話するエスコバルの居場所を突き止め、治安部隊の特捜チームが突入して屋根の上に逃れたエスコバルに一斉射撃を加えて殺害した。エスコバルの脚と背中、さらに耳の後ろに致命傷の銃弾痕が残っていたという。
なお、「密かに出動していたデルタフォースの狙撃手がエスコバルを仕留めた」と信じる者や、「自殺した」と信じる者、さらには、「射殺されたのは別人でエスコバルは逃走して優雅な生活を続けている」と信じる者がいる。エスコバルは死によって伝説化され、今もってメデジンの英雄として信望する者が多い。 エスコバルの妻子は敵対者の報復を恐れて各地を転々としたが、現在、名前を変えてアルゼンチンに住んでいるという。

・遺体の確認

発掘に反対していた母エルミルダ・ガビリアの死後2日経った2006年10月28日エスコバルの遺体が甥のニコラス・エスコバルの要請で掘り出され、遺体が実際にエスコバルのものであったことが確められ、DNAも採取された。エル・ティエンポ紙の報道によれば、エスコバルの先妻マリア・ビクトリアは、ビデオカメラで発掘を記録していた。家族の何人かは、エスコバルが自殺したと信じている。


エスコバルの死後、メデジンカルテルは分断され、そのリーダー達も90年代半ばまでに殺害または逮捕され、現在、コカイン市場はカリカルテルの支配下に移っている。エスコバル亡き現在、コカインの単価は低下し、取引量は増加の一途をたどっている。

写真はキング・オブ・コカインことパブロ・エスコバルと、建築家の長男