見つけた 犬としあわせ

ニュースのファンジン、世界のニュースのサンプリング。 一枚のCDを聴くように一枚のコラージュを眺めるようにこれを体験して欲しい。

2007/09/08

6人のボブ・ディラン


ローリングストーン誌のこの秋の映画新作案内ーその2
◇I'm Not There
アメリカ公開は11月21日。
「軽蔑して責める歌」として判断されるのはボブ・ディランをおこらせる。ミネソタのロバート・アレン・ジンマーマン(ディランの本名)のようなカメレオンをなぜ社会的プロテストの人に制限するのか?ということで、オーレン・ムーヴマンと「I'm Not There」の脚本を書いたトッド・ヘインズ監督は、たくさんの人物を提供する。若い黒人逃亡者(マーカス・カール・フランクリン)、詩人(ベン・ウィショー)、男でも女でもない中性的なロッカー(ケイト・ブランシェット)、映画スター(ヒース・レジャー)、説教師(クリスチャン・ベール)、そしてアウトロー(リチャード・ギア)と。
ヘインズは、ディランを伝記映画のぬきさしならぬ羽目に追い込むようなことは絶対にしたがらない空想家だ。ディランの歌に見つかると期待する超現実的なイメージと暗示を含んだ言葉の中を飛行中の彼をとらえて表現する。奇妙な割には映画はまるで夢のようだ、さらにいっそうあでやかな幻覚のようだ。俳優すべてが幸福の絶頂(最高の時)になるが、境界を限定され支配されることから起こる創造性の死と闘うすべてのアーティストをディランが象徴するのを理解する煽動者、ブランシェットはずばぬけている。

以下は9月5日付AFPのニュースから:
第64回ヴェネチア国際映画祭の7日目、9月4日にトッド・ヘインズ監督のコンペティション部門ノミネート作品「I’m Not There」が上映された。
同作品は6人の登場人物を通じてボブ・ディランを描く野心作だ。ディランはどこにでも存在する人物として描かれる。監督は、映画は「夢のように頭をよぎる」作品で、観客にはディランの史実に固執せず、身を任せて観て欲しいと語った。
映画はマーカス・カール・フランクリン演じる自称ウディ・ガスリー、黒人孤児の登場で始まる。続いてケイト・ブランシェットが男役を演じる人気上昇中のミュージシャン、ジュード。ジュードは反戦歌を捨てロックに転向する。リチャード・ギアはなぞめいた人物ビリーを演じる。ディランの人生と時代をそれぞれの登場人物が対照的に演じ、ディランがミュージシャン、大スター、カウンターカルチャーの象徴、信仰を新たにしたキリスト教徒、ディラン自身へと大きく変化した時代を呼び起こす。
映画は脚色、ドキュメンタリー、テレビの放送映像を通じて、ディランの性格や音楽の変遷を描く。それはアメリカ文化の歴史30年間におよぶが、「ボブ・ディランを定義づけ、またディラン自身が定義づけた」時代なのだとヘインズ監督はいう。
主題歌の「I’m Not There」は、1967年の「Basement Tapes」の中の1曲だが、アルバムは現在海賊版しか残っていない。66年ディランがオートバイ事故から回復したときに制作された。監督はこの事故がきっかけで、ディランはスポットライトから逃れたのだという。サウンドトラックはほぼ全曲ディランの発表曲で、ディランの有名な曲を現代アーティストが演奏した新バージョンが数曲含まれる。
「この作品は(ディランが)誰が彼の人生を演じてもいいと認めた初めての映画だ」。ディランの人生を限定するのではなく、彼の人生を広げて描く開放的な構成がこの作品の誇れるところだと、ヘインズ監督はいう。「I’m not there」は「この映画を描くのに完ぺきな素晴らしい曲だ。彼に触れようとするといつも、彼はそこにいないんだ」と監督は語った。

トッド・へインズ監督には衝撃的な作品「ベルベット・ゴールドマイン」があります。最近は「エデンより彼方に」で注目されました。
写真は映画より、若い頃のディランに瓜二つに見えるケイト・ブランシェットです。

2007/09/06

ダージリーン特別急行列車


ローリングストーン誌のこの秋の映画新作案内ーその1
◇The Darjeeling Limited(ダージリーン特別急行列車)
おかしな3人兄弟、オーウェン・ウィルソン、ジェイソン・シュワルツマン、エイドリアン・ブロディが父の死後、インドに行きます。ビッグにはなっても、ここ最近の作品に「天才マックスの世界」ですっかり虜になっためざましい「おかしさ」が欠けていて、ちょっと寂しかったファンとしては、「天才ウエス・アンダーソンの世界」が全快!といった予告編にいまから興奮しています。アメリカ公開は9月29日。日本ではいつになるのかなー。
以下、ローリングストーン誌の映画評より

告白する:この映画にほれたよ。友人ロマン・コッポラやジェイソン・シュワルツマンと一緒に脚本を書いた、ウエス・アンダーソン監督のこれまでの作品、ボトルロケット、ラシュモア(天才マックスの世界)、ロイヤル・テネンバウムズ、ライフ・アクアティックでも、最高に自信のある円熟した作品だ。
ストーリーの外観は、3人の裕福な兄弟が企てるインドへの精神的オデッセイ(波瀾万丈の放浪の旅)、映画はやたらと愉快だ。ヒマラヤの麓で尼僧と一緒に働いている母親、アンジェリカ・ヒューストンを見つけるためインドをずっと列車に乗って旅するのが3人の目的だ。でも彼らはもっと激しいもの、父の死とずっと家族をばらばらにさせておく影響力に、対処している。
君は笑う、時々、泣き叫ぶのを抑えるためにだ。
オーウェン・ウィルソン、ジェイソン・シュワルツマンはアンダーソンをよく知るベテランだ。ニュアンスをことごとくつかむ方法をよく理解している。だが、映画がメランコリーと苦悩へともっと意識の底に進ませるとき、思いがけない発見がエイドリアン・ブロディだ。悲劇によって少し気のふれたブロディ演じる人物は、言葉にはしないが、「しばらくの間、自制してくれ」と求める。
ダージリーン・リミテッドは今年のベスト映画のひとつにして余りあるほどだ。自制したくなる映画だよ。

写真はウエス・アンダーソン監督です。

2007/09/03

バワリー街のシットホール


ローリングストーン誌の「ロックデイリー」によると、ニューヨークパンク発祥の地、CBGB創始者のヒリー・クリスタルが肺ガンとの闘病後に昨日マンハッタンで亡くなった。75歳だった。当初は、カントリー、ブルーグラス、ブルースなどを特別公演するためクリスタルは1973年バワリーのバーをオープンした。意志の強いイーストヴィレッジのクラブは70年代のパンクロックの活動の中心に発展した、その後、90年代後半には新生バンドが才能を特に目立つよう示すためのスポットへと徐々に進化した。ここ数年クリスタルは彼の大切なクラブをオープンさせておくため、誰もが知っている苦闘に従事させられたが、彼と彼の地主は結局、同意に至ることはなかった。2006年10月15日、パティ・スミスが最後のステージを降りた後、クリスタルは苦心してバーを解体した、そして記憶すべきことの最も貴重な片鱗をラスベガスまで船で運び、そこで彼は行為の現場(悪評プンプンの汚いバスルーム=トイレなどのすべて)を再開しようと計画した。
数ヶ月前にローリングストーン誌はクラブの歴史についてクリスタルと話をした。「大金を稼ぐ目的でこれをやったことは一度もない」と彼は語った。「オレが発見したか、発見されたか、または互いに発見しあったのが、この新しいミュージックだよ。そしてオレはこの人たちや彼らがやってたことにほれるようになった、もちろん他の連中がやってたことは嫌いだ。特にこの独創的ミュージックを精力的にやっているこの連中に機会を与えることで、とてものめり込むようになる。」
以下は、何年にもおよび、クリスタルのクラブでチャンスをもらうことで得をしたアーティストの追慕の情だ。

デボラ・ハリー(ブロンディ):「ヒリーが逝ってしまってとても残念。彼は何年もブロンディやニューヨークのミュージックシーンには大きな助けだった。彼のクラブCBGBはニューヨーク伝説とロックンロール史の一部になっている。」

パティ・スミス:「ヒリーの死が物事をどっと蘇らせる。クラブでの最後の夜、私たちが彼を大事に思っていることが彼にはわかった。彼が立ち上がると私たちは彼に挨拶した。ある意味でそれはいけすかないから、私はロマンチックにしないようにした。音はうんざりするようなものだったし、常に人が取り乱していて、グラスが割れ、人々が吐いていた、それに裏ではネズミが走りまわっていた、でもそれは私たちのシットホールで、最高に重要なことだった。私はいろんなところで演奏してきている、そこは私たちの場所だ、みたいに感じて演奏した唯一の場所だった。彼はコミュニティを有名にしていた。世界のどこにいようと構わない、人々にはCBGBのTシャツがある。市場で売るとか買うとかってことではないの。CBGBは単にヒリーとか、そこやニューヨークシティで演奏した人たちに関するものではなくて、若者の自由を象徴した。自由を意味する点において、私にはCBGBの名はスラングになってもおかしくない。ヒリーは私たちに無条件の自由を提供してくれた。」

スティーヴン・ヴァン・ザント(2005年8月、NYワシントンスクエアーパークでのCBGBを救う慈善公演のバックステージで語る):新しいロックンロールバンドをサポートするというただひとつの理由で、ボクらはラジオ番組アンダーグラウンドガレージでスタートした。それがボクらが5年間やってきたことだ。CBGBは31年間ずっとそれをやってきている。新人バンドとして今でもクラブで演奏はできる、クラブの半分が人に負担させるからね、ほんとクールじゃないよ。新人バンドでラモーンズと同じステージに立てる。こいつはほんとクールだ。これをやりに日本やニュージーランドからやってくる。CBGBは歴史に残る現場ってだけでなしに、CBGBはボクに関する限りでは神聖な現場だよ。戻ってこない。」

トーキングヘッズのドラマー、クリス・フランツ(同じくCBGBを救う慈善公演のバックステージで語る):「ボクたちはCBGBが大好きだし、CBGBとヒリー・クリスタルがバンドとしてやる機会をボクたちに与えてくれたことすべてにとても感謝している。言わせてもらえば、CBGBはボクたちのバンドが生まれたところだった。それについてセンチになりすぎないで、ニューヨークにコネがなく経営の手腕がなくエージェントがいない若いファンには今でも実際すばらしい場所だと思う。CBGBに行けばそこでギグや演奏がやれるし、たぶん彼らもすばらしい成り行きになるかもしれないだろ。たとえ商売を主眼とした方向でならなくても、少なくともアーティスティックな方向ではなれる。彼らにはそれをする自由がある。ボクたちがあそこで演奏を始めたとき、誰もいなかった、たぶん10人くらいかな、そのうち8人はあそこで働いていた。」

B52のフレッド・シュネイダー:「CBGBがロッククラブの先端状態。演奏しなければならなかった当時に後戻りしろよ。ミュージックヴィデオはなかった、単独でやらなければならなかった、ラジオは曲をかけてくれなかった。CBGBはまさに無秩序な大混乱のおもしろみだった、世界で最悪のトイレとぴったり合体した、くすぶった酔いどれロックンロール。」

写真は、CBGBの前に立つヒリー・クリスタルと愛犬。なつかしいな、あの暗さといかがわしさと、臭いと。

2007/09/02

イーノとラノアがフェズでセッション


ローリングストーン誌の「ロックデイリー」8月29日付より
喝采して迎えられるアーティスト&プロデューサーのブライアン・イーノとダニエル・ラノアが、2004年の「How to Dismantle an Atomic Bomb」に引き続いてU2との次のアルバムの製作を開始していた。さあ、1984年のアンフォアゲッタブルファイアー、1987年のヨシュアトゥリー、1991年のアクトンベイビーが含まれる、U2の厄介なアルバムをプロデュースしてきたダニエル・ラノアからの掛け値なしの報告です。
「今回、ボクたちは作曲家として招待されている」とラノアは話す。「イーノとU2と3曲セッションをやった。1曲はモロッコのフェズで、2曲はフランスで。うまくいったよ、すごい。11月にボクたちは再編成されている。」彼は「レコードはまあそれ自体が招いたこと」だと付け加える。ラノアはやがて公開されるドキュメンタリー映画「Here Is What Is」にモロッコのセッションの場面を含めているが、そのシーンは映画の中で効果的だ。「意味をなしてるように思われてね、でもあの連中につけこみたくない。彼らはとてもよくしてくれた」とラノアは話す。「ラノア、君はレコーディングでボクらを見せることになている、ボクらはまだレコードを出してもいない、よしてくれって彼らは言っている、頼む、どんなことも見捨てたりしない、それにまたボクらはいっしょにやって25年になる、ボクにコインを投げろってボクは言った(笑)。」

写真はU2のボノとエッジとラリー